平穏

 夢を良くみますという男性は、堅物には見えないが恐らく真面目に教職を全うしたのだと思う。締まった体をしているから今でも挑戦すればかなりのスポーツもこなせるのではないかと思えるほどだ。年齢よりは若く見えるが、その健康すぎた経歴が病気の発見を遅らせた。 資格の期限が切れている夢をよく見ると言っていた。どことなく強迫観念を持って眠りについているのだ。寝てもなお頭は活動しているのだ。根っからの几帳面が災いしているのか、熱血教師ぶりが災いしたのか、病気のことが頭を離れないのか、心地よい夢は見ない。そんな話をしていると、同じ悪夢に繰り返し悩まされる僕と思わず話が盛り上がり、珍しくコーヒーを飲んで帰った。 別に特別な能力もなかったから後悔することもないのだが、自分で許せないのかあの頃のことばかり夢を見る。夢を捨てて、いや捨てざるを得なくなったくらい無気力に過ごしたあの頃を最後に人生の夢は見なくなった。思えば40年夢を見ずに生きてきたことになる。夢など無くてもそれなりに、おもしろおかしくは生きていけるのだ。夢がないから取り立てて努力もしなかった。だから日常はしんどくもない。平坦な道を歩くことくらいは出来る。坂道は二十歳前に上り詰めた。後はゆっくりと惰性で歩けるくらいのなだらかな下り坂。平坦を幾度も繰り返しながら下っていく。  人生の夢を見なくなってから、毎夜夢を見るようになった。遠くの大きな目標を捨ててから、何かに追われるようになった。眠っても追われていた。追うものをなくしてから追われるようになった。安らかな夜が、人生の急勾配を懸命に登っているときに与えられ、なだらかに足取り軽く下る時に与えられないのは皮肉なものだ。努力して、頑張っているときの方が心が平穏だなんて。 引退が平穏を約束するものでもない。平穏こそが平穏を破壊する最たるもののように暮らしてきたから、平穏を求めて平穏に暮らすのは抵抗がある。今更夢は抱けないが、悪夢に抱かれる夜は終わらない。コーヒーの香りを挟んで悪夢同志が連帯する。あの悪夢に幸あれと心の中でエールを送る。