引きこもり

 数分間の電話の中で、何回この言葉を使っただろうか。彼女が本当に「引きこもり」なら、全国の引きこもりの方に失礼だ。もしその言葉に拘るなら「明るい引きこもり」か「心は引きこもり」位に留めた方がいい。そうしないと相手に伝わらないだろう。この僕でさえピンと来ないのだから、周りの人や友人にも理解してもらえないだろう。  僕に最初に接触してきた頃はさすがにあらゆる公共施設やスーパー、果ては美容院や歯医者に行けなかったのだからその素質は十分あったが、今では毎日パートに出かけているし、電車にも乗れるし、はるか四国の里にも帰れるし、つい最近は京都に旅行したし、1ヶ月に1度は友人とランチを共にすることにも挑戦しているし。こうして羅列すると何を持って引きこもりか分からないが、自称引きこもりは絶対に譲れないのだ。  彼女が唯一根拠に挙げれるのは、ことに構えて下痢をすることだ。何か重要なことがあると今でも下痢をする。ただ、下痢をしてしまえばお腹が空っぽになりその後意外と困った経験がないから、結構いろいろなことをこなしているのだが、その程度では満足できないのだろう。そこさえ解決すれば何も言うことがないのだが、唯一そこがあるから、堂々と引きこもりを名乗っているのだと思う。  華の都大東京でよき御主人とめぐり合い、家を建て、お子さんにも恵まれ、幸せに暮らしていると僕は確信している。10年位前に四国への帰郷の途中で岡山駅で一度だけ会ったことがある。小さなお子さんを連れた小柄な女性だったが、一目見ただけで幸せなお母さんと言う印象を受けた。リュックを背負わせたお子さん、自分は大きな手荷物、まぶしいばかりの光景だった。肝心の顔は忘れてしまったが、受話器を受けての第一声でその人だと分かるくらいその後一杯電話で話をしているから、そしてその都度お子さん達の成長の様子も耳に入るから、幸せなお母さんと言う評価は揺るぎもしない。だけど、だけど、彼女は引きこもりなのだ。明るい声で悲壮を語る引きこもりなのだ。言葉の乱用をものともしない明るい引きこもりなのだ。