小指

 帰ってくるとまだ仕事をしていた娘が「お父さん、顔に黒いものがついているよ」と言うから、簡単に手で払った。それを見ていた娘が「全然落ちていないよ」と言うから不思議に思って鏡の前に立つと、思わず噴出した。ついていると言うより、まるで刷毛で描かれたくらい広範囲が真っ黒だった。でも僕にはいつ何処でこんなに広範囲に黒いものがついたのか記憶に無い。不思議不思議と思いながら手でこすって取ろうとしたが全く取れない。むしろ顔についているものがコールタールみたいなものだと気がついた。コールタールがつくはずが無いと思いながらもコールタールにしか見えない。手触りもなんとなく記憶にある感触だ。幼い時に、頻繁に行われていた道路工事でお馴染みのものだから手触りも匂いも記憶にしっかりと残っている。コールタールなら手でこすっても取れない。むしろ手でこすった分だけ周辺の皮膚が赤くなり、余計汚く見える。  そこで2階に上がって石鹸で洗ってみたが全く取れない。1時間後くらいにかの国の新人達に会いに行く予定だったから慌てたが、よく考えてみれば無理して取る必要もないと気がついた。皮膚が新陳代謝をすればいつかは剥がれ落ちるだろうと考えたのだ。歳をとれば便利なこともある。どんな風貌でも今更気にならないのだ。誰か特定の人を意識する必要がないのは気が楽だ。そんな人がいなければ、世間の目など余計に気にならない。  時間が来たので、顔半分をコールタールでハロウィーンしたまま出かけようとすると、妻がなにやら持って来てくれた。これなら落ちるのではないかと差し出してくれたのはクレンジングクリームなるもので、お化粧を落とすものらしい。テレビで目のあたりをぬぐうと真っ黒にコットンに色がつく、あの優れものかと思い、コールタールの上に塗ってみると、さっきまでびくともしなかったものが、クリームを延ばしたと同じように色が移動して薄まった。女性にとっては何でもないことかもしれないが、僕にとっては驚愕もの。たいしたものだと感心した。そして一気にふき取った。あっという間に皮膚が傷むことなくもとの顔にもどった。化粧の真似事は、なかなか気持ちよいものだ。自然に小指が立っていて、違う自分を見つけて少し怖くなった。