神庭の滝

 瀬戸内の正に海岸沿いに住んでいる人間にとって、この言葉を使うことなどない。自分でも一瞬どの言葉を使えばいいのだろうかと現場で迷った。なぜなら同行していたかの国の若き友人達には的確な日本語を使わなければならないから、使用頻度の低い言葉を頭の中で確認した。その結果「切り立つ」が一番フィットする言葉として思いついた。瀬戸内の景色の中ではありえない風景だし、それだからこそ使うことがない言葉でもある。  久世のエスパスランドで行われた夏彩和太鼓フェスティバルが主目的だったが、折角2時間半掛けて北の方に行くのだから、どこか観光できるところはないかとインターネットで物色していた。するとすぐ近くに神庭の滝と言う、名前だけ聞いたことがある滝があることを知った。滝は岐阜の養老の滝以外見たこともないので、これ幸いに午前中のスケジュールの中に組み込んだ。あくまでメインは和太鼓演奏だから、いわば付録みたいなものだが、これは見事に裏切られた。  町中から10分も走っていないのに、空を緑でふさがれたような森の中に入った。駐車場に車を止め、降り立つと、さっきまでの蒸し暑かった空気が、一瞬にして冷気に変わった。脇を流れる清流は、岩によって段差がそこかしこに設けられているために、白く勢いよく泡立つ。その清流に導かれて坂道を上がっていくと小さな淀みに出た。そこである若い男性がしきりに何かにカメラを向けていた。つられるように見ると、なんとオオサンショウウオがいるではないか。淀みといえども水は澄んでいてはっきりと見える。恐らく天然記念物だと思うが、こうして自然の中で見たのは初めてだった。同行のかの国の青年達に、僕の限られた知識の範囲で説明した。オオサンショウウオをカメラに収めていたが、果たしてこの幸運を分かってもらえただろうか。  さらに清流に沿って上っていく。空は相変わらず緑で覆われているが、「カイジュウガデル?」と一人の女性が僕に尋ねたように、何かか圧倒的に違うのだ。そして足を止めてゆっくりと見回すと、その何かが分かった。そう、山が正に切り立っているのだ。遊歩道と狭い清流を挟んだ両側は、何の容赦もないく垂直の山なのだ。ここには尾根などない。遊歩道の上は見上げても先端が見えない、清流の上も見上げても先端が見えない。左右が垂直の緑の壁なのだ。  そんな空の見えない遊歩道が急に明るくなったところで、思わず「あっ!」と声を出して見つけたのが神庭の滝だった。想像以上に高く、水量が多く、遠くから見ても雄大だった。当然と言えば当然だが、滝自体も正に切り立っていて、かの国の青年達も一様に驚きの声を上げていた。僕は記憶の中に収めようと心のシャッターを切ったが、彼女たちはお得意のカメラ三昧だった。ただ、本当に喜んでいる姿を見て、遠路はるばるやってきた甲斐があったと感じた。  もし彼女達と知り合っていなければ今日の神庭の滝も訪れるようなことはない。懸命に毎日働いている青年達に精神のプレゼントと思って色々企てているが、どう考えてもプレゼントをもらっているのは僕のほうだ。100メートル以上の高さから飛び降りるあの水たちも、国を出て懸命に働く彼女達も、同じ気概を持っている。