成長

 誰もが一度や二度、考えたことがあるのではないか。「若い頃、福山雅治に似ていたら・・・」違った、これは願望ではなく事実だった。「若い頃今の知識が備わっていたら・・・」と。 今なら新たに相談にやってきてくれる人の7割は治せれる。少し簡単な人の割合が増えればその確率はもっと上がるし、その逆もあり得る。いずれにしても長年目標にしていたその確率はそんなに難しい目標ではなくなった。だから漢方薬を飲んでもらって2週間後に会うことが何の精神的な圧迫感ももたらさないし、寧ろどのくらい効果を感じて頂いているか楽しみばかりだ。  ところが、若い頃は違った。体力だけは十分あったが、問題の知識と経験が少なすぎた。だから出来ることが圧倒的に少なくて、その非力さをカバー?カモフラージュ?するためにだけ多くの労力を費やした。上手く言葉を並べて相手をその気にさせるかだけに能力をを使い果たした。2週間後にその患者さんが来たら逃げたいくらい治療に自信がなかった。ただ、田舎の人はそんな僕にも寛容で、僕が長年漢方薬の勉強することを否定しなかった。10年くらい経ってからだろうか、少しずつ漢方薬を使いこなせるようになってから、僕が漢方薬を決断する前に、向こうが漢方薬を所望してやって来てくれるようになった。もし最初から今と同じくらいの知識や治験があったらもっともっと多くの人を治してあげることが出来たのにと、時に想像を巡らせて残念に思うことがある。しかし、よく考えてみれば、若造の時から人に礼を言われる立場に立つと、以後ろくな人生を歩まないような気もする。未経験で迷惑をかけ謝る回数が多ければ多いほど、謙遜が身についた謙虚な生活を以後送れると思う。そうしてみれば人生とは上手くできていて、若いときに安易な果実は与えられない。謙遜を学ばせてもらっているようなものだから、それを悔いてはいけない。  自分でもいやになるくらい非力な膨大な時間と向き合わなければならない若者達に、嘗て同じ悩みを抱えながら耐えて生きてきた大人達の寛容を見せて欲しい。いやその余りにも幼稚だったあの頃を若者達の前に晒して欲しい。決して歓び溢れるような日々は無かったって教えて欲しい。多くの大人達はほとんど時間と言うものに育てられてやっと成長しただけなのだから。