サイン用紙

 医薬分業の建前から言えば良くないのかもしれないが、釘をさしておいて良かったとつくずく思う。  会社からの指示で病院にかかれと言われて、それを拒否するわけにはいかない。診断書を提出しないと色々な便宜は受けられないだろうから。僕は診断書だけ書いてもらって出された薬は飲まなければいいと助言していた。その通りに彼女はしたらしく、2週間ぶりに合う彼女はまるで別人のような笑顔を薬局に入ってきた瞬間にしてくれた。僕はその時点でかなり良くなっているなと分かったが、数値で表すと10の苦痛が6になったという辺りらしい。でも4割も改善するとどんなトラブルでもずいぶんと楽なのだ。 肩がいつも寒くてゾクゾクする、動悸がする、頭がボーとして言葉が出にくい、急に悲しくなる、便秘と下痢を繰り返す、悪夢ばかり見る、顔が一瞬にしてのぼせる、足が冷える・・・このようにもしお医者さんの前で訴えたら、お医者さんはまず鬱病と判断して沢山の薬を出すだろうと思った。案の定、抗ウツ薬1種類、安定剤2種類、睡眠薬1種類、胃薬1種類、計6種類の薬が20歳代の女性に出された。僕が心配していたとおりだ。僕は彼女が相談に来たとき2時間くらい話した。だから彼女が職場や家庭の人間関係で悩んで深く落ち込んでいることは分かったが、病気だとは思いたくなかった。彼女が悩み身体を傷つけるのは当然だと思ったのだ。それを病気として「頭の薬」をやたら出す風潮についていけない。僕は漢方薬で十分お世話できると思っていた。もっとも遠くの彼女を紹介してくれたのも同じような悩みを漢方薬で解決してくれた友人らしいから、本人も僕の漢方薬で治るつもりでいる。最初から信頼関係があれば数段治るのが早い。まして貴女の夢は?と尋ねた僕の質問にハッキリとある職種を答えたのだから、十分前を見ている。そんな若い女性が鬱と診断されて「頭の薬」をいつ果てることなく飲まされるのは耐え難い。関係者はそんなことはないと言うかもしれないが、そんな人ばかり分業が始まって目撃しているからどうしても製薬企業の主張を鵜呑みには出来ない。そんなに鬱の人が急に増えているのかと、いつも疑問を持っている。  お医者さんは、彼女が診察室に入ったとき、まず口を開けさせて扁桃腺が赤くなっていますねと言って風邪と診断したらしい。慌てた彼女が、風邪できたのではなく心の相談できたことを告げると、チェックシートを取りだし、鬱と診断したらしい。2時間かけて極めて正常と判断した僕と、超プロの先生を比べるのは失礼だが、どちらがその女性を救う気持ちが強かったかは明白だ。いくら僕が暇な薬局でも必要がなければそんなに時間はかけない。僕は彼女が笑顔を一瞬でも取り戻すことに全力を上げたのだ。決してその日は心から笑ってもらえるような状態ではなかったが、それでもいくつかの笑顔を残して帰っていった。  環境で陥った心のトラブルは、頭の薬で治すべきなのだろうか。僕は良い人間関係で治すものだと思っている。漢方薬なんて手助けでしかない。ちょっと心の緊張を緩めてあげているだけなのだ。その漢方薬の力足らずな所を「せこい僕」は漁師仕込みの笑いで補っているだけなのだ。  2週間後の彼女は見違えるほどだった。ある職種を彼女はやりたいこととしてあげたが、僕なら女優を薦める。愁いが表情から消えていた彼女は女優になってもいいくらいの美しさを放っていた。哀しみはあそこまで人の表情を変えてしまうのかと、2週間前を思い出して恐ろしくなった。  今のうちにサイン用紙を買っておこう。