ミニチュアダックスだから散歩と言っても隣の駐車場をちょいと失敬するだけでいい。5分もいれば犬は満足する。 今朝、その時間にふと空を見上げると、鱗雲の大群が西から東へゆっくりと動いていた。「ああ、曇って流れるんだ」と当たり前のことを発見した。いや寧ろ発見したのは、自分が動きを止めてゆっくりと空も眺めたことがなかったって事だ。勿論戸外にいれば視界の中に常に空はあるが、たいてい動いているのは空ではなく僕の方だ。歩いているか、車に乗っているかで常に僕は動いている。せいぜい信号機で立ち止まるのがおちで、僕の戸外は単なる移動でしかないのだ。そうしてみると、公園のベンチや芝生、あるいは砂浜などでゆっくりとしたことがない。山頂の大きな石に腰掛けたこともないし、一級河川の土手で足を投げ出したこともない。 何をいつもそんなに急いでいるのだろうと思う。何をいつもそんなに急がせているのだろうと思う。たいした実りを手にすることも無いのに、何を焦ってきたのかと思う。日々の暮らしが何のためにあったのかと思う。空とも、海とも、山とも、川とも、田圃とも一体化することなく不自然に生きてきたものだと思う。  少年の頃、海水浴場の水の中から見える雲だって動いていた。入道雲に追われて慌てて走って家に帰った。あの頃は、僕がいて雲があったのではなく、明らかに雲の下に僕がいた。