蘇生

 驚く無かれ、全く記憶がないのだ。テレビで偶然映し出された景色、それも数秒の間の映像だったのだが、思わず見入ってしまった。余り景色を見て感動したりするタイプではないので自分でも珍しい反応だった。それだけ印象が深かったのだ。 そのテレビを見た翌日、今日なのだが、偶然その眺望を日々眺められる方から電話をもらった。勿論彼女にとってはそんな景色、空気と同じで特段の興味もないだろうが、やはりあのテレビで映し出された風景が実際に存在するのか確かめてみたかった。なにやら連峰と自信がなかったので名前を伏せて尋ねると、すぐに立山連峰と答えてくれた。 僕が驚いて見入ったのは、県庁所在地として広がる街並みと隣接して、あの険しい雪を頂いた高い山々が連なっている光景だ。沢山の人がごくありふれた日常を送っている広い土地と、アルプスを思わす山々が(本当にアルプスなのかもしれないが)まさに隣接しているのだ。山陽で育った人間の常識では、高くそびえる山々は、まず平野を出発して、川沿いをひたすら上流を目指し、丘を経て到達できる景色なのだ。突然に現れる景色ではあり得ない。それがなんと富山市街地と直角に連峰がそびえているように見えた。まるで紙を折って、立てているように見えたのだ。「えっ、なんで?」そんな印象だった。 まさに驚く無かれなのだ。30年前、僕は確実にその景色の中を長い時間をかけて移動しているのだ。卒業して国家試験を終え、まさに岐阜の街と、いや岐阜にいる仲間たちと別れるためにふと思い立った車での小さな貧乏旅の途中でその景色の中を確実に通過している。飛騨高山から延々と道路が下っていた。富山の街では若者が好みそうな小さな喫茶店にも入った。でもそれ以外に覚えていないのだ。同行してもらった後輩たちの具体的な顔をも覚えていない。もっとも成績の下から4人上げれば入っている連中だから察しは付くが。  それにしても今なら見入るような景色をさしおいて何を話しながらひたすら何処を目指して移動したのだろう。どうせお金なんか持っていないから、煙草ばかりふかしてつまらない話を延々としていたのだろう。数日したら僕は、似合いもしない白衣を着て岡大で薬を作っている、そんな絶望的な現実の扉から逃げたかったのだろうか。5年間人の何人分も堕落した生活を送ったから、来るべき生活の幕開けを阻止したかったのか。脱出する必要のない落ちこぼれのまま過ごしたかったのか。 延々と飛び込んでくる道を助手席に座ってただ眺めていただけなのだろうか。見上げることもなく、振り返ることもなく、行く当てもなく、こぼれ落ちそうな時間を懸命に蘇生していたのだろうか。果てしない空白に雪崩れる悔恨。