朗読

 皮肉なものだ。ミサの後キム神父様が「今日の朗読は素晴らしかったですよ」と耳打ちしてくれた。唯一このことで何十年も苦しんでいたのに、その間は何だったのだと思う反面、すぐに同根の悩みで今を苦しんでいる多くの僕の患者さん達のことを思った。 この2,3年、多くの人の前で朗読することが苦痛ではなくなった。ことさら意識しなくなってこれが僕の目的とする完治なのだろうが、手にした感激は今はもう何もない。元々ほとんどの人が出来ることなのだから、それがより以上の価値を持っているとは思えない。寧ろその事が価値をもたらしたのは、僕がお世話している人達の傍に数歩近づける権利を手にしたことだろう。この体験がなければ、過敏性腸症候群や鬱加減の方の処方で悩むことはなかったろう。何としても手助けしたいと悩んだ数だけ僕は武器(処方)を手にして、かなりの確率で現在はお手伝いできていると思う。  昨日は、突然ある人の休みのためにピンチヒッターで朗読をする羽目になった。僕は原則として何も断らないから、快く引き受けた。キム神父様があのように誉めてくれたのは、恐らく僕が、読みながら内容を自分で把握しようとして、ゆっくり読んだことによる結果だと思う。何故か文章の内容に引き吊り込まれたのだ。いつもなら、単に義務を果たすだけの朗読だったのだが、読みながら内容を把握したいと思った。昨日に関しては明らかに僕は自分のために読んでいた。その為、ゆっくり読んだのは確かでいつもとは異なっていた。それがどの様に神父様に聞こえたのか分からないが誉めてくださったのだ。  青春は、諸刃の剣だ。人に対しても自分に対しても繊細で鋭利な刃物を突きつける。妥協を許せない純粋さが他者にも自分にも牙をむく。だがその体験は決して無駄ではない。向上心の現れだし、物事を深く理解しようとする訓練の賜でもある。表層的な関係だけですむのなら、何も悩む必要がない。偽りの心地よさの中で漂っていればいいのだから。妥協を知らない階段も、人生のある時期には登った方がいい。一方通行の困難な階段だったとしても。そこから見事に転落した僕が言うのだから大丈夫。大きなたんこぶの中にいっぱい人の優しさや弱さや逆に逞しさなどを充分すぎるくらい詰め込むことが出来た。  体験に優る教訓はない。