気丈

 電話では気丈に振る舞っているが、恐らく受話器を置いた後は不安の深淵に落ちてしまうのだろう。一難去って又一難。どうして選ばれたように難題が降りかかってくるのだろう。そして何故それらが避けれなかったのか。そして誰かの救いの手が差し伸べられなかったのか。 次々と訪れる幸運に浸れる人も中にはいるのだろうが、職業柄僕が接するのはおおむね前者の方だ。その人の悪行や年齢で避けれないこともあるのだろうが、おおむね何ら非難されるものを持たない人がその苦難に遭遇している。  「誰か自分の苦しみを訴えれる人がいる?」と尋ねたら、僕の患者さんの名前を挙げた。僕はその時家族の名が出るかどうか気になっていたのだ。残念ながら出なかった。初めて友人に連れられて相談にきたとき、何故か孤軍奮闘している人のように思えた。援軍の少ない人のように思えた。「頑張らないでね、正面突破したらだめだよ。人を巻き込んでね」と言うのが精一杯だった。  青年、壮年、老年、どの世代も孤独な人が多い。家族がいても家庭がない。同僚はいても友人はいない。孤独は時に大いなる知的生産の源泉になるが、孤立は何も産まない。孤独から孤立への転落をせき止めるものがこの国から欠落している。発展という名によって隠されてきた大きな落とし物を今更かき集めることは出来ない。清流を下る落ち葉もいつかは沈み沈殿し汚泥になる。誰がそれを手ですくおうか。沈む前なら間に合うものを。