あきらめ節

 今日ある業界紙を読んでいたら、薬剤師たるもの、服装は勿論、髪もぼさぼさなんて言語道断と書いてあった。恐ろしくてその後は読めなかった。どうも筆者は僕の薬局をねらい打ちで書いているのではないかと思うくらいお見通しだった。  戦後まだ、どこの家にも貧しさが残る中で育ったので、もったいない精神は結構根付いていて、服は汚れてしまうまで洗濯しないし、髪は自分でも気持ち悪くならない限り切らない。出された食事は、満腹でゲエゲエ言いながらでも残さず食べる。古くなった食材でも、臭わなければ食べて、結局よく中る。外見に拘っていないように見えるが、実は拘った末の結果なのだ。結果としてその状態が一番居心地がいいから、これから先も変わらない生活習慣だと思う。  今夜は牛窓の花火大会だ。子供が成長してからさすがに会場まで見に行くことはないが、窓越しによく見え、音も十分臨場感を持って聞こえてくる。この所お百姓さんから南京(カボチャ)をしばしばもらうから、毎日南京ばかり食べている。以前は嫌いだったが何故か最近はそんなに苦手ではなくなった。さすがに毎食のように出てくると閉口もするが、なくなるまで食べるのが僕のたちだから、あきらめ節を唄いながら食べている。・・・米は南京おかずはひじき、牛や馬でもあるまいし、朝から晩までこき使われて、死ぬよりましだとあきらめる・・・電気を消して花火を見やすくしているが、手元の南京は見えない。ぬるい発砲酒を飲みながら、どうしてこんなに感動のない日々を暮らしているのだろうかと、暗闇に八つ当たりする。  あの大輪の火の花の下に立つ自分は想像できない。何を失ったのだろう。何を無くしたから僕はあの下に立てないのか。坊主頭の少年が見上げる。火薬の臭いが頭上からふってくる。未来は空から降ってくるものだったのだ。