シャワー

 軽々に論じることは出来ないが、家族内の殺人事件が多いように感じる。他人と違って、家族には、多くを期待してしまう。健康であらねばならぬ、成績優秀であらねばならぬ、精神的に強くあらねばならぬなどなど。他人なら、そのくらいなら十分ではないのと軽く受け止められることでも、家族なら許せない。より完璧を期待してしまうのだ。ただ、それを要求された方はたまったものではない。不可能を要求されて立つ瀬はない。まして1日中無言の圧力を感じていては逃げ場がない。自分を消すか、相手を消すかにまで追いつめられてしまう。凶行を行えば、檻の中で何十年過ごさなければならないなどの分別も働かないくらい追いつめられてしまう。今を逃げるので必死なのだ。  並の親の成功体験は子供には意味がない。特別優れた人なら説得力もあるだろうが、99%の凡人の成功体験など子にとって意味はない。子供にとって成功とも思わないだろう。役に立つのは失敗体験だ。子や孫が失敗し躓いたときに、共有出来る負の体験をいかに沢山持っているかが重要だ。幸運にも体験が少なければ本で得た知識でもいい。ハウツーもので成功体験ばかり追っていたのでははじまらない。  親は子にとっては避難場所でなければならない。その親が門を閉ざして入れてくれないなら、子はその門を破壊するしかない。暴力でこじ開けるしかないのだ。親に問われているのは忍耐だ。声が届くところにそっといてくれればそれで十分だ。  がれきの下で死にゆくときに「お母さんごめんなさい」と謝る子の純真さに優る大人などいない。悲惨な報道のシャワーで、洗い流すべきものは、豊かな国の殺伐とした日常の風景だ。