歓びの唄

 今日を境に、BGMをマライヤキャリーのクリスマスソングから小澤征爾指揮の第九に替えた。毎年恒例の行事だ。この2曲以外に季節を考慮することはないのだが、さすがにこの2つだけは、日にちを選んでしまう。歳末とか正月とか実際には死語になっているが、それでも何となく拘っているのだろうか。  どこに行くわけでもない、何をするわけではない。普段やり残している単純な作業を今から三が日に予定しているが、それ以上の意味もなく、退屈がもう忍び寄っている。行く年を総括するほど意味があったとは思えないし、来る年に期待するほど能力はない。歓びの唄を歌い上げる合唱団にはるか遠い昔、革命に歓喜したベートーベンを思うが、彼の才能の万分の一ほどもない僕ら庶民は、さしずめ年末の1週間くらいの勇気を貰うのが落ちだ。虐げられた人達が、普通の市民になり、時代が移り、又その階層が沈没する。科学は発達しても、人間の知能や感情は縄文の時代も今も違いはないだろう。  隠れ家を失った蚊がエアコンの上昇気流にのり年を越す。屋内にもしっかり定着した異常は虎視眈々と北上する。暖流に飼い慣らされた精神も、段差のない「年」を易々と越える。