倉敷天領太鼓

 そもそも僕が和太鼓にのめり込んだのは、岡山の表町を歩いている時にふと太鼓の音にひきつけられて路上でパフォーマンスをしている備中温羅太鼓に衝撃を受けたからだ。それから他ののチームもあるのではとアンテナを張り巡らすと、ちょうど倉敷天領太鼓のコンサートがあった。もう10年以上前のことだと思う、そのコンサートにも衝撃を受けたものだ。多くの演奏者が舞台に並んでいて、志を同じくする人たちがどの世界でもいて、多くのもの(文化や芸術やスポーツ)を支えているのだといまさらのように気づかされたのを覚えている。
 ところがその後、倉敷天領太鼓の単独のコンサートを見る事はなかった。アンテナを張り巡らしているからキャッチできないはずはないから、恐らく市民会館を借り切ってする規模のものは以後なかったのだと思う。
 そして去年の和気の藤祭りの時に、山部泰嗣他数人による倉敷天領太鼓の演奏を久々に聴く機会を得た。各人が鍛えられたパフォーマンスで十分満足できるもものだった。そしてその後も、かつて一度見たコンサート規模のものをしてくれないかなと心の中でいつも思っていた。と言うのは、僕は香川県の和太鼓のコンサートにしばしば行くが、どんどん岡山県との差が広がっているように思えていたからだ。香川県のチームに対抗できるのは興行的に備中温羅太鼓くらいなものと思っていた。もちろん風人のように技術を極めているチームはあるが、興行的にはなかなか成り立っていない。2時間観客を感動の世界に誘い続けるのは難しいが、香川県の太鼓チームは結束力があるのかどうか分からないが、幾度となく感動の機会を与えてくれる。
 昨日の日本縦断和太鼓コンサートを聴いていてすぐさま疑問が沸き起こった。舞台で打っている人たちはいったいどこのチームなのだと。力強く正確で、曲もしっかりしていて、完成度の高いパフォーマンスを繰り広げる集団は。出演者の紹介には九州の女性太鼓集団と倉敷天領太鼓と岡山県の有志としか載っていないのに。そして途中でその中に山部泰嗣がいることに気が付いた。そうか、これが現在の倉敷天領太鼓の姿なのだと。僕がかつて初めて見たその時より何倍も上手になり、何倍も感動を与えてくれるチームになったんだと気が付いた。
 あのレベルの感動を与えてくれる、そしてあれだけの聴衆を集められる和楽器の芸術集団はそんなには存在しないだろう。僕の知らないところで大いに活躍はしているのだろうけれど、僕の中での「勝手な復活」に人事ながら喜んだ、冷たい雨が降る初春の倉敷の出来事だった。

硬直

 電話の向こうの声はとても元気だ。数年前に聞いた声とはぜんぜん違う。この数年間、もっぱら連絡はお嬢さんからだったから、声を聞いていない、ただ2週間に一度家族中の漢方薬の電話注文は入っていたからお母さんの様子は把握していた。
 決して横着ではなかったが、何しろ目が回るから起きられない。1日中寝ているというのが実情で、ほぼ外出はしなかった。その結果筋肉は衰え、家の中を歩くのでさえ危なっかしい。
 ただ漢方薬だけはまじめに飲んでくれた。その結果、めまいはなくなったがめまい恐怖症は残った。以前のように完全に引きこもることはなくなったが、それでも月に数回しか外出しない。どんどん外出して自信をつけてとお願いしても不安感のほうが勝るのだろう、腰は重かった。
 ところが今日の電話で最近の日常を尋ねると、1日7時間は立って家事をこなしていると言う。実際声もずいぶんと大きくて元気になったとは思ったのだが、7時間も立ちっぱなしで過ごしているという報告には驚いた。どのくらいの期間でそこまで活動できる時間を増やしていったのかは分からないが、ほぼ普通の人に近づいている。そこまで変わった理由を尋ねると、お嬢さんが仕事に出だして家事をする人がいなくなり、仕方なくやっているそうだ。「私がしなけりゃあ、誰もしてくれんのじゃもう」と言うが、声に悲壮感はまったくない。
 家事をこなすことで、買い物などの外出機会も増えて必然的に歩く距離が増えて筋力が少し戻ったと言っていた。お嬢さんが心置きなく仕事に出かけられるくらいまで体調を戻すのには漢方薬は貢献できたかもしれないが、筋力を増やすところからは漢方薬の力ではない。「私がしなきゃあ仕方ない」状態の貢献によるものが全てだ。このように人はモチベーションでずいぶんと変化できる。年を取ると僕も確実に仕事をしたいから、時に相談者のやる気を聞いて薬を作り始め、モチベーションの持続を確かめて継続のための薬を作ることがある。何が何でもという若いときの力みはなくて、確実に貢献できる人を選択し、身を守りながらお手伝いするよう心がけている。
 医学も驚くほどのスピードで発展しているが、それに取り残された病態は結構あり、漢方薬が貢献できる分野は減るどころか増えているような気さえする。漢方薬を究めていた同業の人たちが世を去り、必然的に商圏が広まり、気力、体力以上の仕事を強いられているのが現実だ。寝てばかりの人を7時間立ちっぱなしにしたようなモチベーションを僕自身も見つけ、せめてもう数年と思うが、内憂外患状態では明日の保証もない。
 春が足早にやってきて、重い上着一枚を脱がせてくれたが、心も体も相変わらず寒さで硬直している。

水戸黄門

 長年の水戸黄門ファンにとって、あれほどの屈辱はなかった。例えで言うなら、史上最大の嘘つきのアホノミクスを日本の掃除大臣にしているくらいの屈辱だ。
 もう、「再」を何回重ねればいいのだろうというくらい昔からのファンにとって、武田鉄矢水戸黄門を見せられるくらいなら、午後3時がなくてもいい。
 僕は今まで一度も武田鉄矢水戸黄門を見たことがなかったのだけれど、シリーズが入れ替わったときに「見てしまった」それはそれはもう、何十年の感動を一瞬にして打ち消すほど水戸黄門の番組の質を落としてしまった。例のネチャネチャしたしゃべり方が光圀像にはまったくあわなくて、気持ち悪いくらいだった。いやそれを通り越して、最早怒りの状態だった。
 午後3時台に運よく?食事を摂ることができれば、15分くらいは後ろめたさなく水戸黄門を見ることができる。その習慣でその時間に食卓に腰掛けるとTBSにチャンネルを合わせてしまう。といった理由で2度、見たくない水戸黄門を見てしまったが、その後は敢えてチャンネルをそこに合わせなかった。ところが数日前に何気なくそのチャンネルに手が行った。そこに現れたのは、いやいや現れてくださったのは、もう何度もみている西村?という俳優が演じる光圀だった。これはさすがに見ていて気持ちよい。演技がうまいのか、見るからにそうなのかは分からないが、安心して見ておられる。
 元々武田鉄矢水戸黄門をいつごろ、どのくらいの期間放映したのか知らない。そもそもそんな水戸黄門があることすら知らなかった。リアルタイムで放映したときにも恐らくかなり不評だったのではないか。だから元々製作した本数が限られていたのか、再放送でコアなファン層から不満が噴出したのだろう。
 これでまた昼食を全うな時間に摂れないくらい一所懸命に働いて、3時50分に賭ける。「この紋所が目に入らぬか」と悪人を成敗する瞬間に溜飲を下げ涙を流す。悪代官や疫人を現代の政治屋や悪疫人に当てはめて空しさを解き放つ。

擬似体験

 関西から相談に来たある家族のお嬢さんが、我が家に一人泊まったのは今から何年前だろう。当時小学生だったが、久々に目の前に現れたその子はこの春、ある音楽学校に入ると言う。面影は辛うじてあるが、道で会っても気がつくはずがないくらい変わっている。当時機関銃のように子供とは思えない言葉を駆使して僕を楽しませてくれた子は、今はずいぶんと落ち着いて、素敵な女性になっている。こんな子がいれば、ご両親も幸せを分けてもらえるのではないか。なんだか久しぶりに会う孫のような疑似体験をさせてもらった。
 僕は職業柄か地域性か分からないが、このような擬似家族体験をさせてもらうことが多い。多くはベトナム人女性たちの擬似親子だが、今日のように擬似孫もいいものだ。家族と言うより職業集団の趣が勝っている僕の家庭では味わえない気持ちを味わうことができる。近い将来、彼女がテイクファイブでも聞かせてくれればうれしい。

虐待

 ごくごく普通の家の子供だったけれど、いつの間にか「弱きを助け強気をくじく」くらいの気概は持っていた。誰に教わったわけではないが、自然と身についていた。恐らく身の回りにそんなことを口にする大人がいたのだろう。その影響で撲は子供ながらに常勝の人や集団が嫌いだった。当時で言えば巨人と大鵬。それらに負かせれる側をいつも応援していたから日の目は見なかった。
 最近のニュースを見ていて何十年前のそんなことを思い出す。もし、当時のような気概を育つ中で教えられるチャンスがあったら、多くの事件は回避されていたはずだ。自分より弱いものにしか力(暴力)を行使できないような人間が多いから、幼い子供を虐待するような事件が続くのだろう。強い人間までとは言わないが。せめて普通の人間としての強さを持っていれば弱いものを標的にはしない。よほど自分に自信がないから幼子に手を出すのだろう。
 どうせ捕らわれて法務局の別荘に入るのなら強きに抵抗してみろと言いたい。ご法度の裏街道を行くような人ではなく、金と権力を私物化している悪の権化たち。どんなやつかはテレビのスイッチをいればニュースの時間帯に出てくる。なけなしの庶民の金を国中から集め、自分たちの仲間で分け合っているやつらだ。イヤホンを耳に差し、1日中大人たちが作ったおもちゃに目を落としていたら、やつらの思うつぼだ。見えない鎖につながれ、餌を与えられ、小さなハウスで眠る。そのために生まれてきたのではないだろう。見えない虐待を日常的に受けているのは自分たちだ。屈辱にまみれて生きてどうする。

大山

 バスの運転手を買って出てくれた柴田寝装店の店主は、朝ふと思いついてスーパーカブを走らせ、蒜山まで走り、自動販売機のコーヒーを飲み、そのまま帰ってくるような独特の趣味を持っている人だから、色々な所を訪ねていて、蒜山なども知り尽くしている。そんな彼をして「今年は本当に雪が少ない」と言わしめるくらいの暖冬なのだろう。僕は初めての場所だから比較するものがない。ただ時折耳の空気を抜かないと気圧の変化についていけなかったから、相当高いところまでやってきているのだろうことは分かった。ただひたすら登ってきたが、急な勾配を登ってきたわけではないから、どの程度かは想像が付かない。ただ、いわゆる蒜山に着いた時にはさすがに緑深い山の背後にまるで水彩画のように雪をかぶった山々が連なっていたので、瀬戸内に住む僕にはまるで別世界の景色で感動を隠せなかった。もっとも、20人のベトナム人女性たちの歓声に比べれば、抑制の利いたものだったが。
 僕は知らなかったのだが、蒜山は大山の麓といってもいいような位置関係にあるらしい。なるほど柴田さんがちょっと迷った挙句教えてくれた大山はひときわ高く、雪もたくさん蓄えていた。岡山県の高校は、僕の母校もそうだが夏に大山の縦走をする。雪を蓄えても隠しきれない山肌はねずみ色で、それがより大山を険しく見せる。僕の同級生はよくも縦走したものだと感心した。(恥ずかしながら僕ら不良たちは勉強すると言って遠足に参加せず、自主勉強をしていた・・・ことになっている)しばし大山を見上げながら50年前のことが蘇った。
 昨年までベトナム人を連れて行っていた四国の雲辺寺スキー場と違ったのは圧倒的に働いている人たちが親切で友好的だったことだ。恐らく地元の人ばかりで、若いアルバイトと思しき雲辺寺のスタッフとは違っていた。当日混雑していなかったこともあるが、世話係り以外になんでこんな年齢の人間がスキー場にいるだろうという疎外感を味わいそうな僕に、親しく接してくれ、蒜山や近辺のことを色々教えてくれた。瀬戸内に暮らす僕には全てが新鮮だった。海辺とは違った生活の営みをし、僕らと同じように故郷を愛し、僕らと同じように故郷の発展を願う気持ちを共有できた。
 わずか4時間の滞在だったが、きれいな空気を吸い、親切なスタッフ(若い人から僕ら世代まで幅があった)の人たちと巡り合い、バスを借りてまでやってきたことが報われた。別れ際に、いちばんよく話した男性が残念そうに僕に言った。「また春にでも来てください。本当ならちょうどこの大きな木の上に大山が見えるんですが、今日は雲ですっぽり隠れています」

 夜の9時半。まだシャッターを全開で僕は仕事をしている。いつもの時間なら、夜のウォーキングから帰ってくる時間なのだが、今夜は、それこそシャッターを新設してくれた業者が親切にも、その近辺のタイルの目地の汚れが気になって、きれいに塗装してくれているのだ。契約以外の親切が今、この時間に行われている。娘たちが知り合いになった若い現場監督が勤める建築会社にこの数年いろいろ発注しているが、丁寧な仕事に驚かされている。丁寧に親切が今夜重なった。
 薬局をこの場所に移転して30年以上経った。何かと老朽化してメンテナンスを繰り返している。よほど用心をして持ち上げないと腰をやられそうなシャッターも娘夫婦が僕に無断で新しいものを取り付けてもらうように契約した。腰より倹約世代の僕には若干の抵抗はあった。ただ実際には、このところ肩も痛めてほぼ満身創痍状態で朝晩シャッターと格闘していた。それを見かねたのかもしれないと思えば抵抗も薄らぐ。僕の代わりに娘が時々シャッターを持ち上げてくれていたから反対はそもそも出来ない。
 今朝はじめてそのシャッターが自動で上がるのを見た。静かな音でゆっくりとすべるように上がる。スイッチひとつで何の貢献をしなくてもことがすむ。昨日までのことが何だったんだと言うくらい気持ちが楽だ。壊れかけたシャッターはとても重くて毎日が一か八かの勝負のようだったが、これでそれが原因で骨格を傷めることはなくなった。これから筋骨の衰えによるダメージとの戦いが続くが、リスクは避けれるなら避けたほうがいい。倹約という尊い精神も予想される痛みの余生とは取引できない。
 このところのメンテナンスの連続で感じたことは、お金を出せばいくらでも便利を買える。きれいも買える。僕のレベルでそんなことが実感できるのだから、ある人間たちは思っているだろう。金を出せばいくらでも人間が買えると。この国の中間層から底辺の人間まで、いやいやアジアのもっと貧しい人間たちまでを。鎖の変わりにこぎれいな服は着せてはいるけれど。