桟敷席

 1年間待っていた第九の季節が来た。今日は岡山シンフォニーホールで演奏会があった。岡山県ではシンフォニーホールの第九が一番質が高い。素人の僕でも分かるが、だからと言って他の演奏会がつまらないなどと言っているのではない。22日には総社で行われる第九に9人のベトナム人を連れて行くようチケットを手配しているから、どの演奏会も如何に僕が楽しみにしているか分かってもらえると思う。ただ素人でも10数年第九に通っていると、多くの知識を得て、ランク付けができてしまう。ただし、10数年前に第九のコンサートで最初に経験した感動は、どこのコンサートに行っても毎回味わせてもらっている。僕が第九詣でを止めれない理由だ。
 今日は来日して間もないベトナム人のほかに、以前から約束していた県外の女性を招いて一緒に出かけた。何度もベトナム人との京都旅行を現地で引率してもらった女性だが、今では数少ない我が家の友人?になっている。招き入れ泊まって一緒に行動をする人は、その女性以外に今はいない。職業を介してなら数え切れないくらいの人たちとの交流は日常的にあるのだが、仕事を外れてのものは非常に珍しい。妻も、肩肘張らない自然な接待をしてくれる。それがもう数年来の稀有な付き合いを作ってくれているのかもしれない。物静かで、お喋りな人ではないが、穏やかな空気の流れを作り出せる人で、招いてはいるが、こちらが堆積した精神の脱力を手伝ってもらっているのかもしれない。
 シンフォニーホールは円柱形で、外からだと見上げなければならないくらい大きい。これが中に入るともっと大きく、高く感じる。まして今日の僕達の席が3階の桟敷席だから余計だ。谷底を見下ろすくらい高くて居心地が悪い。3階の桟敷席と言うことはビルの5階くらいに相当するのではないかと、対面の桟敷席を見て感じた。ホールの大きさ、桟敷席、それだけでベトナム人は歓声を上げてくれたが、今日の3人は最後まで身を乗り出して聴いていた。片言の日本語での評価もとてもよかった。ベトナムでは絶対に経験しないことだから、僕の達成感は大きかった。そしてもっと「良かった」と思えたことは、その女性が、第九を聴いて涙を流してくれたこと。理由は分からないが、僕もそういった経験をしばしばする。どんな評論も、どんな感想も、その涙以上に表現できるものではない。涙は心を言葉以上に表すことができるものなのだ。 
 歳を重ねないと巡り合えない良質のものは沢山ある。いたずらに歳を重ねることを否定しなくてもいい、そう思わせてくれた、とても幸せな一日だった。