絶滅危惧種

 一足早くクリスマスプレゼントを持って来てくれたかの国の二人を表現するのに、最適の言葉を探していたら、妻がいみじくも言った。「あの恥じらいは昔の日本人が持っていたものね」と。 通訳をしていた女性が不本意に帰国してから二人の女性が勇敢にも時々遊びに来てくれる。僕の英語よりは通じるだろう彼女たちの日本語を唯一の武器に、心を通わせる。向こうの習得した日本語が唯一の意志の疎通の道具なのだ。出来ればかの国の言葉を少しでも混ぜてあげようと本屋の語学コーナーの前に立ったこともあるが、見ただけでブロッキングが起きて、買うのは止めた。もし買っていたら一言数百円の高価なものになっていたと思う。それくらい馴染みのない難解な発音だった。  クリスマスプレゼントは、紐でいちいち作った星や花や鳥が数百個ぶら下がった大きな風鈴で、仙台の七夕祭りを想像させるようなものだった。どのくらいの時間をかけて作ってくれたのか分からないが「凄い、凄い」をくり返す僕らの前で、うつむき加減でお互い目を合わせ微笑んでくれたのだ。その姿こそ嘗てどこにでもあった光景を思い出させたのだ。1時間くらい悪戦苦闘しながらも楽しく過ごしたが、僕も妻も表現する言葉を探すくらい印象深い姿だった。  このささやかな感慨を味わう伏線には、ここ何年間かのテレビでの無能な奴らの態度がある。くだらないことにいちいち手を叩いて喜ぶ奴らの存在だ。この見苦しさには耐えられないから慌ててチャンネルを変えるが、変えたところでも同じような低能が出ているから、ついにはスイッチを切らざるを得ない。  男も女性も、なにをうぬぼれているのか謙遜とか恥じらいとかを忘れている。いや、元々持っていなかった可能性の方が高いのかもしれない。日常遭遇していたものが、今は絶滅危惧種になっている。黄色人種のまま西洋人にはなれない。農耕民族のまま狩猟民族にはなれない。穀物に適した長い腸を持っている人間が、肉食に適した短い腸にはなれない。 夜道を自転車で帰っていく姿を見送りながら、帰りを待っているだろうかの国のご両親のことを想った。