牛窓北小学校

 今年度最後の学校保健委員会の集まりは、牛窓北小学校だった。養護の先生が場の雰囲気を和らげようとして、自己紹介の時に自分の好きな動物を紹介するように提案した。なかなか面白いアイデアで、自己紹介といえども自分の名前しか言わないのが一般的だが、さすがにそれにまつわるちょっとしたエピソードを各々が付け加えていた。犬とか猫の常連組に加えて、熱帯魚なども上がっていたが、嫌いな人や、アレルギーで触れない人もいて、なかなか最初から盛り上がった。珍しいことだ。北小学校は農村の面影を色濃く残していて、共同体意識が牛窓の中でも強いところだ。そう言った父兄の連帯感もあって、先生の狙いは的中した。自ずとその後の議事進行なども発言が多くあって、有意義だったと思う。 僕は今年も小中4校を回ったが、意識的に何処の学校でも訴えたことがある。それは僕の長年の疑問を解いてくれる新聞記事に遭遇して、どうしてもその解決した内容を学校や父兄に伝えたかったからだ。  ある学者の考察だが、準引きこもり(準ひきこ森という本になっているらしい)と言う概念を提案していてくれたことだ。完全な引きこもりではなく、学校などには行けるのだが、そこでコミュニケーションが旨くとれないと言うのだ。一杯思いを持っているのに旨く表現できないと言う理由だけで、変わっているなどととんでもないレッテルを貼られ、自分の世界に閉じこもって身を守っている人達のことだ。そう言った人は、進学とか就職とかで新しい環境に入ったときに、旨くとけ込むことが苦手で、仲間との摩擦を自分が辞めることで解決する傾向があるというのだ。いやな人間関係で苦労するより、自分の世界にこもった方が楽だからだ。  実はこの範疇に入る人達と一杯僕は漢方薬を媒体として知り合っている。そしてその全員が多くの想いを持っていて、多くの言葉を持っていて、それを旨くあらわせれないことで、自分の行動を必要以上に制御していることを知っている。感受性が豊でも表現しないと孤立してしまうことを知っている。能力があるのに、それを発揮する場を与えられなかったことも知っている。とても真面目に、生きているのに、評価が低いことも知っている。僕はその学者が提案している解決方法を、先生方にお願いした。何処の学校も真剣に聞いてくれた。ある学校では先生が追いかけてきて、実は自分の息子もその通りなのだとうち明けてくれた。  僕は悔しくて残念なのだ。毎日多くの青年や親と言葉を交わし、メールを交換するが、世の価値観が華やかなものを良しとする風潮が強くなりすぎて、質素とか、謙遜とか、物静かとか、奥ゆかしさなどと言う身につけるには難しいものほど評価されていないことが。僕に何が出来るか分からない。体力もないし、寛容の力もない。ただ職業的に訓練された聞く耳が少しだけある。有意義な提案や援助は出来ないが、漢方薬に添える言葉もある。親と同じくらいな年齢の友人になれる。彼ら彼女らの精神年齢の高さと、僕の精神年齢の低さが丁度旨く交錯する。  自己紹介で僕が答えたのは「え~、僕が好きな動物は、綾瀬はるかです。去年までは伊藤美咲でした」