大根

 母の所から妻が大根を一杯抱えて帰ったときから不吉な予感がしていた。大根はもう最後だというので抱えられるだけもらって帰ってきた。僕は幼いときから、大根の煮たのは苦手だ。子供の時はえづきながら食べていた。我が家には米粒一つ残してはいけないしつけがあったから、勿論えづきながらでも必ず食べたが、よい想い出は全くない。その想い出がこの数日再現されている。何を思ったのか、何も思っていないのか、出るは出るは、もう何食、いや何日続けて同じものが出ているだろう。さすがに僕の表情に出ているのか、忙しいから仕方ないなどと先制攻撃も受けて、モクモクと食べ続けている。我が家の食費はいったいどのくらいですむのだろうかと、嬉しいような寂しいような。元々食べ物に関しては淡泊な方だから、なんのこれしきと思うのだが、それでも続きすぎる。もっと悲しいのは、大根をただ煮ただけのがほとんど主菜なのだ。  これは吉と出るか凶と出るか判断が難しいところだ。米と野菜だけですごい長生きするか、タンパク質が不足して弱々しい人生の後半を送るか。もっとも、僕の子供の頃の食事は、まさにこの数日と同じレベルが10年以上は続いた。それで、小学校、中学校と1日も休まず通い続けたのだから、粗食に軍配は上がるのだろうか。  思えば僕の人生を通じて、衣と食は全くお金がかからなかった。食費は1日ワンコイン、服代は1年でワンコイン、ひょっとしたらそんなものかもしれない。ある奥さんに、「いいなあ」って言われた。かなり実感がこもっていたから、余程ご主人に気を遣っているのだろう。僕なら気を遣ってもらって息苦しいより、気を遣われなくて自由の方が余程良い。勿論人それぞれで、人それぞれだからいいのだが。今日も人それぞれが人それぞれに悲しんだり喜んだりして人それぞれに眠りにつく。人それぞれの明日のために。大根こわい。