電気ストーブ

 何となくコンセントを触ってみたら熱くなっていた。危ないところだったのかもしれない。調剤室は足下が冷えるので、長年使っている電気ストーブを出してきて寒い日には使っていた。コードは所々で被いが破れていて、本来綺麗な赤いコードのはずなのに、茶色の中身が見えている。危ないなと思いながらも、金属部分が露出はしていなかったので、何となく使っていた。あまりに火事の報道が多いので心配になってコンセントに触ってみたのだ。  古そうだけど、いつ買ったものなのと聞かれたから、考えてみれば、僕が中学生の時にはもうすでに使っていた。当時、今のように暖房器具が発達していなかったから、小さな電気ストーブ、それもコイルがむき出しで火傷しそうなのを有り難く使っていたのだ。恐らく、当時一気に普及した暖房器具だったのではないか。と言うことは、40年は使っていることになる。さすがに今回のことで捨てることにしたが、よく使ったものだ。勿論他に素晴らしい暖房器具がどんどん現れてきたから、使い続けたのではなく、ピンチヒッター的な使い方をしたから長く持ったのだろうけれど。それにしても、ものを大切にする家、いや捨てれない家、いや、拘らない家なのだろう。使える内は使うという、当たり前のことが当たり前に身に付いている家なのだろう。当然親譲りだ。苦労した親の世代ならどの家も同じだと思うが、それがそれ以下の世代、豊かな世代に伝わったかどうかだけの話だ。少なくとも僕の家では伝わっている。  今日ある建設会社の社長が漢方薬を取りに来て、コーヒーを飲みながら雑談をしばらくした。彼がおもしろがって、僕の家にはテレビを録画する機械もないと言っていた。そう、無い。恐らくもっとないものはいっぱいあるよと言うと、あきれてそれ以上はつっこんでこなかった。ものがある生活より、無い生活の方が楽だと思うのだが、価値観の違いだからどうしようもない。ものはないけど心はあるよと言うと、そそくさと帰っていった。僕が珍しくつき合いのある業種の人だし、肩書きの人なのだ。置きみやげに、ギターを調弦する機械が最近あることを教えてくれて、わざわざネットで調べて、定価の何割引だから買ったらと教えてくれた。このアンバランスが僕は好きなのだ。