標識

 これだけ生きてくると、年月に比例して実体験も知識も多くなる。誰だって言えることだ。そのおかげで危険からは逃れられるし大きな失敗もしにくい。裏を返せば、冒険や実験とはますます縁が遠くなる。大人が若い人に口を挟み勝ちなのは、実体験からある程度結果が予測できるからなのだ。白紙で望むよりははるかに確率高く予測できる。  だが、僕は余程のことがない限り口を挟まない。僕の子供に対しても他人に対しても。ごく普通の大人が、体験したもの、つかんだ価値観、そんなもの、たかがしれている。本屋の棚1段に並んでいる知識の合計より心許ないだろう。そんな大人の助言なんか危険すぎる。可能性を秘めた青年のこれからを奪ってしまったりしたら申し訳ない。だから僕は基本的にはそれらしいことは言わない。自分が感じ、考え、行動を起こしたもので、成功すればいいし、又失敗してもいい。上手くいくことより躓く方が得ることは多いだろう。上手くいって欲しいが、そればかりでは人間がいびつになる。  標識だらけの道を歩きたくないだろう。右に曲がれ、左に曲がれ、落石に注意、飛び出しにも注意。ここは一方通行。人生だって同じだ、ほっといてくれと言いたくなる。危険でない、ハプニングも起こらないような道なら面白くない。知っている道は面白くない。どこへ行くのか分からないから歩いてみる気になる。標識に沿って歩くのではなく、歩んだ道程を標識で記憶すればいい。青春期に従順は必要ない。社会にも忍耐はある。忍耐ぎりぎりのところで生きればいいし、生かされればいい。