無用

 沢山部屋があっても使っているのは2つか3つ。沢山家具があっても、使っているのは2つか3つ。沢山食器があっても使っているのは2つか3つ。沢山食材を冷蔵庫にしまっていても使うのは2つか3つ。無用のものに囲まれ、作っているのは無駄ばかり。残すものは何もないが、これでは残してしまうものがありすぎる。残される側としてはほとんどが、がらくただろう。残されて迷惑なものばかりだ。  あまりにも身軽な青年期を過ごしたものだから、その感覚が至上のものと思ってしまう。何もない気楽さに優る開放感はない。何もないことが豊だと当時は決して思わなかったが、人並みに所有するに従って、その価値がだんだんに分かってきた。無いところから始まって、結局そこに帰るなら、ずっと持たないのがいい。ものを持たなければ、気持ちも軽くなる。失う心配がないなんて究極の開放感だ。そんな開放感を長く感じたことがない。いずれ迎える臨終の時、高価な車に乗ったことを思い出すのか、立派な家を建てたことを思い出すのか、出世して肩書きが立派になったことを思い出すのか。そしてそれらがすばらしい人生の証だと満足するのか。  より良く生きようとしたが、より豊かに生きようとしたのではない。多くを失わなかったのに多くを得ようとしたのでもない。ここに来てやっと与えられる以上に与えたいと思えるようになった。大切にされるよりは大切にする方が心地よいことも分かった。学生時代、4畳半の狭い部屋に寝具とホームごたつしかなかったが、出入りする友情は、今の何倍も豊だった。豊かさは、目にも見えない、耳でも聞こえない。勿論手でも触れない。心でしか感じることは出来ない。  その後、無用と無駄に囲まれ、豊かさがどんどん離れていった。