肩身

 信号で止まったので何気なく車窓を眺めていると車の販売会社の前だった。入口の近く、ショールームの近くでもあるのだが、室外においてある折畳用の椅子に腰かけて、一人の男性がマスクを顎までずらし煙草を吸っていた。従来ならどこにでもあっただろう光景だが、なんとなく違和感を持ったから目が留まってしまった。
 タバコ吸いがマスクをする?1000種類以上の化学物質を含む煙を吸う人間が、そしてその中で数十種類の発癌物質を含んでいるのに何をマスクで防ごうとしているのだろう。本来なら気管支の入り口にマスクをしなければならない人種だ。そもそもショールームから、おそらく家族が見物中か商談中なのだろうが、たばこの副流煙を他人に浴びせないために出てきたのだろうか。いやいや、そんな殊勝な考えはたばこ吸いにはない。30数年前の僕がそうだったからよくわかる。喫煙不可の場所から仕方なく出てきただけだろう。肩身の狭い人間が、信号で止まった車とわずか数メートルのところで、多くの視線にさらされる羽目になっている。その方が余計居心地は悪そうだが、ニコンチン中毒中の人間にはわからない。かつての僕がそうだったように。
 いっそのこと顎のマスクは心まで下げたほうがいい。心は最早タールでべっとりとおおわれている。

自己紹介

 今日、ある時間帯だけ、薬剤師が5人になった。何とも心強いものだ。給料さえ払わなくていいなら、このくらいのスタッフでやりたいものだ。
 一人は県外から勉強を兼ねて応援に来てくれている薬剤師。よく勉強をしている人だから、応援が99%だと僕は思っているが、本人は謙虚な人だから逆を思ってくれているかもしれない。
 一人は動物の保護を一所懸命に取り組んでいた方で、動物の病気を治したい一心で漢方薬の勉強に来ていた方。今でも時々犬の漢方薬を作りに来る。
 昼過ぎに前者がいるところに後者がやってきた。僕は入ってくるなりお互いを紹介をしようと、まず入って来た人を「綾瀬はるかさんです」と紹介した。すると朝からいたほうが自己紹介をして「藤原紀子です」と言った。綾瀬はるかより藤原紀子の方が数倍受けた。関西の人ではないのになかなか面白い返しをしたものだと感心した。本来の性格か年を重ねたおかげかわからないが、その乗りで接してくれれば牛窓の人にも受け入れられると思う。父の代から2代にわたってそのようなスタイルでやってきた。漁師や百姓が多い町では必須の素質なのだ。気取っても何の役にも立たない。僕が大切にしてきたのはいつも笑顔ではなく、いつも笑い。似ていても少しばかり後者の方が知恵がいる。

用意

 その男性の奥さんは医療関係の仕事をしていて、かなりの地位にいる。もう20年くらい色々なトラブルを漢方薬でお世話をしている。とても忙しい人で、最初に処方を決める時だけ本人がやってきて、あとはご主人がとりに来る。
 今日も強い雨の中やってきてくれた。話好きなご主人だから結構いろいろな面白い話をしてくれる。その話が一区切りついた時に、奥さんの定年に引っ掛けて僕の辞め時がつい口から出てしまった。すると彼は「次を用意しておかんといけんよ」と言った。「次は分からんなあ」と言うと「これだけみんなが漢方を取りに来とるんじゃから、そりゃあ駄目じゃわ、みんなが許すまあ」と畳みかけてくる。
 こんな時に僕はこの「みんな」を信用しない。みんなが許さないのではなく「あんたが許さない」のだ。もちろん辞めることを許さない「あんた、もしくは奥さん」はとてもありがたく感謝する。次世代を含めて、できるだけ長く薬を作ってと言ってもらえることは有難いの一言に尽きる。薬科大学で超劣等生だった僕をここまで働かせてくれたのは「あんた」のような田舎の心優し人たち。数えきれない有用な無駄話のおかげで多くの知識を得たし、真面目に不真面目に徹し多くの知識を得た。こうした無作為の作為が次の世代に受け継がれるのか分からない。
 辞め時は病め時?それだけは避けたいと思う。多くの「あんた」のために。

分類

 素人だがうすうす気が付いていたことがあり、今朝の新聞で専門家が「医療化のリスク」と端的に表現していたのを見て納得がいった。漠然とした感じが言語化されたことで僕にとっては自信にもなる。
 毎日相談を受けていて、判断を迫られる場面がある。これは明らかにお医者さんの仕事、これは僕(漢方薬)の出番。これはご自分や家族、社会の問題。前後のちょうど真ん中が僕ら漢方薬を勉強している人間の出番だ。高度な医療や強い薬が必要な時は、受診を勧める。薬でお手伝いしたほうがいいけれど、現代薬には適応する薬がない場合など漢方薬の出番だ。問題は後者、薬や医学では解決できないだろうことまで、医療に依存してしまう分野が増えてきているのではないかと思うのだ。僕の言う「うつうつ」など、一気に精神病薬に行くのではなく、休暇を取り、友と遊び、野や山で自然の力をいただくようなことをすれば改善するのだと思うが、すぐに医療に丸投げしてしまう人がいる。逆に手遅れになるまで自分で頑張ってしまう人も多いみたいだが。
 多くの苦しみがお金と友人で救われるとある作家が言っていたが、なるほどなとうなづける。お金と友人でしか助けられないものを医療化してしまうと、本質が見えなくなるばかりか、大切な人から離れていくことになる。居場所が医療の中でしかなくなってしまう。何事も何かの範疇に分類してしまわなければ非効率な世の中に、なんとなく違和感を持つのは漢方をやっている人間の故だろうか。

友情

 テニスコートが見えるあたりから、コート上に黒いものがたくさんあるように見えた。近づくにしたがってそれらが活発に動き出したので鳥だとわかり、コート直前では燕だとわかった。テニスコートは4面あるのだが、どの面にもいて、数えてみると30羽を超えていた。しばしば他の種の鳥が同じようにコート上で遊ぶのには遭遇するが、燕が地上にいるのにはあまり遭遇しない。何をしているのか見ていると、他の鳥のようにせわしく地面にくちばしを伸ばすことはなかった。ただ、時々はそのような仕草はする。虫でもいるのかと思うが、近づくと逃げてしまうのでそれは確認できなかった。燕は飛びながら虫を捕まえるのかと思っていたが、ひょっとしたら地面を這っている虫も捕まえるのか。草も生えていないコート上では天敵の蛇などもすぐ察知できるから、安全に朝食が取れる至福の時間なのだろうか。そんなところに乱入しては申し訳ないので、僕は1面だけ燕からコートを借りることにした。分かっているのか分からないのか知らないが、燕たちは隣3つのコートに飛んでいって、同じように食卓を囲んでいた。かつて燕尾服を着ることを拒否した男と燕尾服そのものの燕たちとのつかの間の友情。

喫茶店

 そうか、それが言いたかったのか。
今日2回薬局に来てくれた女性が結局3回目に僕に会えた。もう30年以上僕の薬局を利用してくれている人だから、僕も彼女も遠慮がない。いつもの漢方薬を作る依頼だが、1度目は電話相談中、2度目はちょうど手を離せない薬の調合中。勝手知ったる彼女だから遠慮してよそで用事を済ませてくると出て行ってくれた。
 3回目は意地でも応対しなければと思っていたら丁度手が空いた時間に来てくれた。15分くらい雑談をしたのだが、僕が昔ほど時間をとれないこと、最近の僕が忙しくてゆっくり(どなたにも)応対していないこと、そして僕が疲れた顔をしていることを心配してくれた。
 そして、いつかの土曜日に見かけた新しい薬剤師の話になった。県外から1日限定で勉強?手伝いに来てくれている薬剤師なのだが、その人柄などをひつこく尋ねてきた。知識も経験も人格もそろっていると話すと、僕が寮として提供している隣にあるベトナム人用の古民家から、ベトナム人に出て行ってもらって、薬剤師の寮にしたらいいと提案してきた。そうすると僕が楽になって、まだまだ仕事を続けられると言うのだ。彼女は現代薬が飲めない人で、16歳からずっと僕の漢方薬ですべての病気を治してきた人だから、ほとんど友人関係だ。僕の体調をひょっとしたら一番知っている人かもしれない。赤の他人がそこまで心配してくれるのかとありがたがっていたら、「この薬局がなくなったら私は困る。絶対薬局をやめないで。その薬剤師さんに牛窓に住んでもらえばいいじゃない」
 そうか僕でなくてもいいのだ。僕と同じレベルの漢方薬を作ることができる場所があればいいのだ。「椅子にいっぱい腰掛けされられて、薬を待つ薬局は嫌い。ここは喫茶店みたいだから嫌じゃない」そうか僕でなくてもいいのだ。

行列

 毎年この季節に肺のレントゲンを撮る。巡回車が回ってきて公民館の広場に陣取る。わずか30分の間に地域の希望者が受けるのだから「読み」が必要だ。できるだけ時間を割きたくないから30分間のどの時間帯が人が少ないか読む。出足が悪ければ始まってすぐがいいし、真面目な人たちだったら開始早々が多いだろうから終わる瞬間に駆け込むのがいい。
 そして今日僕が公民館に出かけたのは、そのどちらでもなくちょうど真ん中の時間帯。実はこれは意図したところではなく、偶然ぽっかりとその瞬間に時間が取れたのだ。クロネコの郵送にすべて間に合って作ることができほっとした瞬間がまさにその時間帯だった。
 ところが公民館に着くと、今まで経験したことがない人が行列を作っていた。僕の部落にもこんなに人がいるんだと思うくらいだった。だがよく見てみると、人と人との間隔が大きく空き、机ごとに呼ばれ、その都度消毒液を掛けられる。僕はさすがに経験がないが、その昔毛じらみ退治で消毒薬をかけられている戦後すぐの光景を撮った写真を思い出した。何とも惨めな気持ちになる。おまけに僕はマスクを持っていなかったから、手作りのマスクまであてがわれた。
 何から何までが大げさで時間を取る。居眠りをしそうだった。ところがなぜかレントゲン車には常時3人が入らされる。公民館の庭の広いところでは離れて並ばされて、狭い車内には詰め込まれる。確か車には「公益法人」とか書いていたように思う。どういった意味かよくわからないが、あまり儲け主義でやるななんて縛りがついているのだろうか。そのせいか受付をしている女性が礼を欠いていた。儲けなければ事務的で済むのか。距離を取らせ消毒を強要するのは、実は自分を守っているのではないかと思わせられるほどだった。広い青空の下、マスクが臆病な行列を作っていた。