愛嬌

 昨日掘り返し埋めたばかりのアスファルトは、黒く光っている。まだ白線を引かれていない道路の真ん中あたりに置き忘れられた布きれが横たわっている。元は白色だったのだろうが少しネズミ色に汚れていて、それが丁寧に何重にも巻かれているから、見方によっては猫が横たわっているように見える。いや寧ろ布きれのように見える猫と言ったほうがいいかもしれない。偶然の造形に調剤室から感心してみていたら、作業員が片づけた。しばしの心の遊びだった。 あごが細いから特徴的な顔をしている。斜め上を向いている顔がこの1年しばしば新聞やテレビで映し出された。満面の笑みを浮かべているのに、ちょっと前までは犯罪者の顔で、今や仕事の出来る有能な役人の顔の代表になっている。全く同じ顔で同じ写真なのに、見方によってはずるがしこい悪人に見え、見方によっては知性溢れる才女に見える。こうした相反する印象を持たせた元凶や共犯者は、何ら傷を負うことなくこれからも存在する。質が悪いことにこれからも今までと同じように正義面のままで。個人は勝手にこけても組織は何ら傷つくことなく生き延びる。何処の世界も同じだ。固有名詞ではなく肩書きだけで事が足りる世界の恐ろしさだ。 布きれが猫に見えるのなら愛嬌ですむ。ただ質の悪い奴らの正義面は愛嬌ではすまない。見方を変えても変えなくても、正義は正義であって欲しい。責任をちゃんととれての正義だ。組織という実体の怪しげなもののために、人が消化されるのではたまらない。実体のないもののために如何に人間が犠牲を強いられているか。そしてその為に如何に人が道を踏み外し、如何に転落していくか。企業や団体が個人より優位にあるという神話から解放されないまま、固定された価値観だけが闊歩する。