全然

 何も欲しいものがないから意識してお金を使うことはないが(何気なく必需品だけを買っている)散髪代は意識してしまう。昔ながらの散髪屋さんには悪いが、合理主義が頭をもたげて、昔ながらの所には行きにくい。昔ながら・・・に何が対峙するのか正確には分からないが、僕の頭の中には1000円で10分くらいで仕上がる散髪屋さんのことがある。シャンプーもひげそりもない。ただ髪を切って掃除機みたいなので吸い込むだけだ。勿論髪型などは要求できるのだろうが、どんな髪型でも土台が崩れているのだから、何も要求しない。これは物心ついた頃からおなじみの行動だ。何も要求しないでシェフにお任せだ。幼いときには男が格好に拘ることに美学を感じなかったから何も要求しなかったが、今はその意味すら感じなくなった。無駄な抵抗のような気もする。  確かにカミソリで深く髭を剃ってもらい、柔らかい手でシャンプーをしてもらうのは気持ちがいい。その心地よさの差が3000円以上の価値があると認めている人に横やりを入れるつもりは全くない。僕だってその心地よさは分かる。ところが髭は翌日からもう伸びるし、髪型は一晩眠れば崩れるしで、心地よさだけで3000円余分に払うことに抵抗を覚えるようになった。最初、1000円の看板を見たときには胡散臭くて躊躇ったが、一度経験すると、その1000円の方が普通のように思えて、そこから心地よさを積み上がれば4000円以上になるのだと考えるようになった。4000円から、いや山から谷を見下ろすのではなく、谷から山を見上げるようにした。  僕に漢方薬を教えてくれた今は亡き先輩二人も同じような考えだったのかもしれない。二人とも何故か僕に金額の縛りを示唆した。少しばかりの知識を得ておごるなと言いたかったのかもしれない。おごるどころか僕には尊敬してやまない先生がいるから、幸運にもずっと謙虚でおれる。おかげで、僕がお手伝いした人達のほとんどがごく普通の人達だったから、症状の改善を心から一緒に喜ぶことが出来た。逆によい結果を手にしていただけなかった人には申し訳けなく思い、僕自身の心も病んでしまう。自分の健康のためにも常によい結果をだし続けることが必要なのだ。仕事の結果が僕にとって薬にも毒にもなる。  夕方、恐らく東京のど真ん中から電話をくれた女性が、雑踏の喧騒をバックに「全然」と言った。何が全然かと言うと。過敏性腸症候群が治って来ると「世間が今までとは全く違って見える」のだそうだ。同じ都会の中で同じように暮らしているのについこの前までお腹のことで苦しんでいた頃とは全く世の中が違って見えるのだそうだ。このような表現で喜んでくれたのは初めてだったから僕には新鮮な喜びだった。  僕もその女性も決して眺望の良い山上で暮らす人間ではない。谷川沿いに続く道をとぼとぼと歩いているだけだ。せせらぎの音、鳥の鳴く声、風のいたずら、摩天楼の谷を歩く彼女にも聞こえているはずだ。