通販生活

 何を頼んでも断らない人がいる。実際には断れない人と言った方が正しいのかもしれないが。  嘗て僕もその種の人間で、頼まれれば快く引き受けることをモットーにしていたが、最近は期待に応えられる体力が底をついているので基本的には全部断るようにしている。一見、豹変と言えるかもしれないが、根底は同じだと思っている。嘗ては期待に応えるように努力し成果を出し喜んで頂くことを僕の喜びにもした。しかし今では、体調により途中で諦めなければならない可能性があるから、安易に引き受けて投げ出さざるを得ないことを寧ろ懸念している。途中放棄は最初から何もしないより引継が困難な場合が多いから。 そうしてみるとこの方は大したものだ。僕より一回りは上だと思うのだが、未だ現役で「断らない生活」を続けている。この気力、体力たるや羨ましい限りだ。茶の間で「通販生活」をしていてもよいくらいの年齢なのだが、時に額に汗をして熱弁もふるう。体力の裏付けは卓球だと最近知ったのだが、気力の裏付けはいったい何なんだろう。 根っからの真面目と堅物は似て非なるものだ。やっていることが時折重なるから区別しにくいこともあるが、打ち込んでいるときの余裕が違う。打ち込み方がおおらかなのだ。車のハンドルのように遊びが多い。直球しか投げないピッチャーではなく、カーブもスライダーもシュートも持っている。変幻自在なのだ。だから自分自身も折れないのだと思う。硬直した精神は意外とポキッと折れる。しなやかに伸び、強い風にも逆らわず身を委ねる植物が、台風の後に倒れている大木を横目で見ていることが多いように。  僕はその人を決して褒めはしない。心の中では「まいった」と言っているが口には出さない。口に出すことによって評価の対象になってしまうからだ。ごくごく自然な善意までが、評価されてしまうことになる。寧ろ僕は若干茶化し気味にする。下手に褒めたりしたら、気持ちがあっても健康不安や力不足でやりたくてもできない人達の居場所を奪ってしまう。親切も慈善も結構気力体力を要し、誰にでも出来るものではないのだ。 折角の二部合唱がその人が引き受けてくれたおかげで三部合唱になっても構わない。お嬢さんが営んでいるハーブの店から、折角持ち出してくれた香りが臭くても構わない。家ではやったこともない拭き掃除で、床が余計に汚れても仕方ない。よかれと思うことに打ち込む姿勢はただただ頭が下がる。やはりこの「打ち込み」は卓球の賜か。