葬式

 亡くなった方には申し訳ないが、葬儀が日曜日にあたったので、久しぶりにお手伝いが出来た。田舎だからまだ近隣の人が葬儀を取り仕切るのだが、それでも葬儀屋さんにほとんどを依存するようになってずいぶんとすることが無くなった。以前なら、食事の世話、お寺さんへの手配、葬列の手配などと、それこそ日常から一気に未知の世界に突き落とされ、取り仕切り役にあたったものならそれこそストレスは想像を超えるものがあった。僕も若い頃偶然にその役に当たったことがあったが、かなり予習していて助かった経験がある。何処にも冠婚葬祭にめっぽう強い人がいて、そのときにはいっきに存在感が増す。そんな人に前もって教えを請うていたのだ。  葬儀社に通夜から全てを依存するようになって、近所の人はすることがほとんど無い。 実際昨日やったことは、受付で香典を預かり、整理し、たちは(立ち飯?・・・方言かな、お返しのこと)をお返しすることだけだった。神妙な顔で来て下さる人になんて言葉を返せばいいのか分からなかったのでみんなで考えた。昨日は意外と年齢が近い人が多くて、その種のことには皆疎い人ばかりだった。それぞれ思いつく言葉を口にしたが確信は持てなかった。その中で結局年長の方が、何も言わないことにしようと言うことになって、もくもくと神妙な顔でお辞儀を繰り返した。なにかばつが悪くなって、最後の方はそれぞれが思いついたまま口にしていたが、ハッキリは口には出さずムニャムニャと言葉を濁す術を会得した。この微妙な聞こえるような聞こえないような言い回しが出来るようになると老人の仲間入りが出来るのかもしれない。  久しぶりに近隣の人が一堂に会したので、結構受付は楽しかった。人が途切れたときには冗談を言い合って大笑いし、とても葬儀場の中とは思えなかった。葬儀社の若い女性が美味しいコーヒーを作ってくれたりして、今はこんな待遇を受けれるのかと感心した。何かスイーツは付いてこないのかと尋ねたらそれはさすがになかった。  教訓。葬儀は家族葬に限る。出される弁当やコーヒーが楽しみな人など出席する必要がない。家族が心ゆくまでお別れが出来ること。それだけでいい。親族が出席者に気兼ねして気丈夫に振る舞わなければならないのは本末転倒だ。  このことを母に話すととても喜んでいた。気配り世代の代表みたいな女性だから、自分の葬式まで家族の迷惑にならないように気を使っている。母もドライな息子を持って安心だろう。