逃げ場

 訳があって母親を施設に預けた知人がいる。1ヶ月で痴呆が進んでしまったから、引き取った。すると3日で元に戻ったそうだ。見慣れない老人がいると思ったのだが、後で紹介されたとき、知人のお母さんだと分かった。控え室で待っているように言っていたそうだが、興味があったのだろうか、知らない間に末席に腰掛け1時間の間じっと集会の様子を見ていた。促されて自己紹介をしたが、名前は勿論、生年月日もはっきりと言われた。  施設の薬を120人分毎週作っているおかげで、その種のことは良く分かる。処方される薬を見れば、ほとんどの人が経時的に衰えていくのが分かる。たまに強者がいて最期まで便秘薬しか飲まなかったような人もいるが、多くの人が衰えるに従って薬の質も量も増やしていく。核家族化して、家族全員が働かなければやっていけないような国だから、介護を家庭でになうことはかなり困難だ。今更家庭で介護するべしなどとはサラサラ思わないが、時として最期まで家庭で全うする人がいる。余程の好条件が揃わなければそれは出来ないが、一番それを可能にするのは「必要とされている」と言う自覚だと思う。それがあれば、気力は充実し免疫も上がる。動くから血流は盛んになり、筋肉も衰えにくい。  こう書いていると、それは老人にとってだけのことでないことに気がつく。若者でも壮年でも、いや、子供だってそうだ。愛され大切にされることも重要だが、「必要とされること」はより重要だ。それは受動ではなく、能動に転換できる力を持っているから。誰もが持っている個性が、生産的なことに活かせれば、例えそれが感性の世界でも物の世界でもいいが、誰もが「必要とされる」。画一的な判断や価値観が人々を萎縮させ逃げ場さえ奪ってしまう。逃げ場を失った人が唯一見つける安住の場は、思考を止めた肉体の中。