お神楽

 幼い時の最大のイベントは、真夏に一度だけやってくる伊勢神宮のお神楽だ。家々を回って舞ってくれるのは勿論、特に楽しみにしていたのは町の広場で演芸を披露してくれる大神楽だ。曲芸と言ったほうがいいだろうか、ちょっとしたサーカスみたいなことをやって見せてくれた。何重にも人垣ができていた。娯楽に乏しかった頃だから、大人も子供も集まった。信仰心もあったのかもしれない。
 20年経って牛窓に帰ってきてから、家々を回るお神楽にお供えをする立場になった。薬局の前で舞って貰った後にお供えをする。相場と言うものがあるのかどうか知らなかったから、最低限のものをしていたと思う。そのうち子供が成長するにしたがって乗り越えてもらいたい試練が次々とやってきた。そのつど僕はお神楽に願い事をしていた。それはその後ずっと続き、今でも熱心に迎える。お願いすることがだんだん難しくなって、自分の中で「気持ち」もだんだんと額を上げ、今ではやっと、人並みのお供えができるようになった。ただ残念ながら願い事はかなってはいない。だけど止められない。僕はお神楽が大好きだ。幼い時からずっと変わらない。
 今年、珍しい光景を見た。なんとお神楽の集団の中に10代かと思われるような青年が二人混じっていたのだ。僕より年長者を含めて、結構高い年齢層の人が多かったが、見慣れぬ光景を二人の青年が作り出していたのだ。笛も十分吹けていた。後継者が育ったのだと嬉しかった。こんな田舎の薬剤師が、天下の伊勢神宮の心配をするのは滑稽だが、日本中津々浦々を回ってくれる神様の遣いがなくなっては地方の人間は寂しい。神様に祈らずにはおれないことが時代の発展とともに減ることもない。むしろ取り残される人たちの不安は増大しているかもしれない。手を合わせる存在はいつの世にも必要なのだ。

身軽

この歳になろうがなるまいが、基本的には儀式と言うものが苦手だから誕生祝は勘弁してもらいたい。ところが数年前に何かの拍子に誕生日がバレて、毎年ベトナム人たちが祝いをしてくれるようになった。今年は、第1寮と第2寮が別々にパーティーを開いてくれたから、2日間に渡って苦手な時間を耐えた。
 ベトナム人にとって誕生日はとても大切なものだそうで、盛大に祝うそうだ。その片鱗が飾り付けに現れていて、いったい何時から用意したのだと気の毒に思うほど舞台装置が華やかだった。いつの間に買い揃えたのだろうと思うような小道具がいっぱいあった。写真を撮るためだろうが、多くの恥ずかしいポーズをさせられそうになるのを逃げまくった。
 僕がベトナム料理を食べられないのを知っているから、出されたのは白十字のケーキと果物だったが、それもまた気の毒になるくらい豪華だった。そしてプレゼントなのだが、まさか欲しいのはズボンとは言えないから、今年もまたなすがままに任せていたらTシャツと靴だった。ただ残念ながら、Tシャツは汗を吸いそうに無いし、靴は25.5cmで指を曲げないと入らないし、「もったいない」ばかりだ。ただそんな顔を見せることはできないから、うれしそうに振る舞い、礼を言った。しかし「お父さんは心だけでいい」といつものせりふを何回も繰り返した。
 実際にこの歳になって欲しい物などないのだ。しいて言えばボルボのV90か、牛窓に移住してきた多くの芸術家や作家達の作品を展示販売できる店を作るか、小高い中腹から牛窓の海を眺めながら楽しんでもらうランチバイキングができるレストランを作るか、和太鼓のチームを招いて演奏してもらえる、200人くらいの小さなホールを作るかくらいなものだ。ところが、それらはどう転んでも実現できそうに無いものばかりだから、無いに等しいのだ。身軽がいい。若いときから自然にそうして生きてきた。そうした生き方は僕の多くの欠点を補ってくれたように思う。おかげで、持ちすぎることや欲しがる物が多すぎて自滅する人間にはならなくてすんだ。

経験

 日曜日の日が暮れた時間、雨の中を僕はベトナム人の寮に、翌日の姫路旅行の打ち合わせに行くべく駐車場から出ようとしていた。するとタイヤが何かを踏んだような衝撃が伝わってきて、動かすには障害があるように感じた。以前このような状況で思いっきりアクセルを踏み、動かしたばっかりに大きく車を傷め、多額の出費を迫られた経験があるので、その夜はすぐに車を止め車外を点検した。すると、水道メーターを覆っている鉄板が車の重みでずれて、水道メーターの穴に垂直に立っていた。そのせいで車が動きづらくなっていたのだ。強引に車を動かせば、地面上に20cmくらい垂直に立っている鉄板を踏むことになる。経験が生きたことに安堵したが、それもつかの間、その穴から大量の水が溢れ出しているのを見つけた。雨が強い夜で、あたり一面濡れているから、そのこと事態は気にならなかったが、このまま朝まで大量の水が道路に流れ続ければ、明るくなってから交通の邪魔にもなる。メーターの穴に手を突っ込んでバルブを閉めてみたが、水の勢いはまったく弱くならない。これは僕の力では無理だと判断して、すぐに地元の燃料店に電話した。燃料店といっても水道工事など幅広くやっている店で、色々な要望にこたえてくれるところだ。
 日曜日の夜7時半、無理を承知で事情を話し、助けを求めた。すると調度会長がいて、すぐに飛んできてくれた。彼が穴に手を突っ込んで取り出したのは、メーターやバブルが取り付けられている部分のパイプで、30cm近くあった。なんと車の重みで、パイプが30cmくらい切断されていたのだ。道理でバブルをとめても何も変わらなかったはずだ。僕の車は重いので、鉄板を垂直に踏んでしまったのだろうと彼は説明してくれた。そして彼は元栓を探してくれて難なく水を止めてくれた。何度も何度も僕は例を言った。こんなに有難い事は無い。通行する人たちにどれだけ迷惑をかけなければならなかったと思うと、その懸念から解放してくれた事に感謝は尽きない。
 おまけに翌日は休日だったにもかかわらず社員を3人出勤させてくれ、朝2時間くらいの時間で完全に修復し、水が使えるようにしてくれた。彼が夜帰る時に「不便ですが、ちょっと我慢してください。トイレが特に困るよ」と言っていたが、それも妻が震災用に買い置きしていた水の本の一部を使うだけでやり過ごせた。
 車も傷ついて不安だったから、会社に持っていって点検してもらったら、若干傷んでいるが走行にはなんら影響が無いらしくてほっとした。ベトナム人の帰国に当たっての思い出作りの旅行は流れてしまったが、燃料店の会長やディーラーの社員の人たちにはとてもお世話になった。とんだトラブルだったが僕は多くのものを学んだ気がした。地元の業者だからこそ急な事態を助けてもらえたし、会長の人柄だからこそ、10分もしないうちに駆けつけてくれたのだと思う。田舎では地元の経営する店がどんどん廃業し、東京を始めとする全国展開の店が闊歩する。利益を全部東京に持って帰り、地方の町には恩恵は無い。消費者であり住人である僕たちが、いざと言うときに本当に助けてもらえる人達を見捨ててはいけない。僕自身の住民としての暮らし方を教示してくれる良い経験になった。

讃岐国分寺太鼓保存会

 この時期高松で行われる和太鼓の演奏会は「 鼓展」と言うタイトルで行われ、讃岐国分寺太鼓保存会単独の舞台だ。その舞台を知ってからもう何年も皆勤中の僕だ。よその市町村のことでまったく知識が無いから、どうして  毎回讃岐国分寺太鼓保存会か分からなかった。後援?する高松市との関係が分からなかった。和太鼓の盛んな香川県で一つの団体が続ける理由がわからなかった。平たく言えばもっとうまい団体はいくつかある。
 ところが今年の舞台を見て、この数年間の疑問が解けたような気がした。その理由は二つある。
 一つ目の理由は、小学生中学生の演者の数がとても多く、幼いにもかかわらずとても訓練されていて、十分聴き応えのある演奏だったてこと。大人と合わせた数で会員が50人いるらしい。次の世代を育てるのに成功している数少ない団体ではないだろうか。岡山県内を含めて多くの和太鼓の演奏会に出かけるが、いつの間にか舞台で太鼓を叩く人の数が減って貧相になっている団体をいくつも見ている。そのつど寂しさを禁じえないが、讃岐国分寺太鼓保存会は明らかに増えている。市が後援するのも当然だ。青少年の健全育成の期待を背負って活動していると思うが十分期待にこたえている。舞台に立つ中年期の世代の人たちの努力の賜物だろう。恐らくご自分達が背中で示した生き方を子供たちは見ているのだろう。
 二つ目の理由は、若者達がめっきり力をつけたことだ。なんとなくおとなしい演奏が多くて僕みたいな和太鼓お宅にはいまいち訴えるものが少なかったのだが、今年は違った。明らかに腕が上がっていたし、その上がり様が幾段も一気に跳ね上がったくらいだった。それは百花の乱と言う曲だった。若い男性ばかりだったが、すごい迫力とテクニックで、それこそどこに出しても恥ずかしくも無いと言うより、聴衆をどこの会場でも圧倒しそうな演奏だった。曲そのものも良いし、演奏もすばらしかった。その日初めて自然発生的な拍手が何度も沸き起こった。それと最後の曲(石響)今まで何度も聴いているが印象に残っていたのはサヌカイトの優しい音色だけで、太鼓の記憶は無かった。ところが今回はその太鼓の迫力がすごかった。演者が例年と入れ替わったのかと思わせるくらい迫力があって心臓に痛いくらい伝わってきた。そこでも拍手が何度も自然発生的に起こった。
 どんどん力をつけてきた若者達に支えられ讃岐国分寺太鼓保存会は大きく飛躍した。僕が勝手にイメージしている香川県の太鼓の勢力分布が変わりそうだ。

錯覚

 「そんなことはありえない。絶対ない」と言われても事実そうなのだから困ったらしい。「70歳を過ぎて病院の薬を飲んでいない人など見た事がない」その見たことがない人が目の前にいるじゃないのと思ったらしいが、口には出さなかったらしい。
 僕のところで静脈の滞りを取る煎じ薬を飲んでいる方が、目がカサカサするから眼科に行った。すると眼科医は、どんな薬を現在飲んでいますかと尋ねたのだが、その女性は僕の漢方薬以外飲んでいないので「飲んでいません」と答えたらしい。そこで出た言葉が冒頭の言葉だ。どうやらお医者さんのの頭の中には、70歳を過ぎれば全員が医者の上得意だと思っているらしい。ところが世の中医者のために皆生きているのではない。もともと健康で病気をしない人もいれば、化学薬品をできるだけ体の中に入れまいとする人もいれば、自爆テロの生き方を選択している人もいる。僕の母なども、息子が漢方薬の勉強をしていても、その実験台になる機会もただの一度を除いて無かった。90歳を過ぎて膝が痛くなり、山の中腹にあるお墓に参ることができなくなって初めて漢方薬を作るように頼まれたが、治るまで3ヶ月真面目に飲んだだけでまったく薬とは縁が無かった。検診でコレステロ-ルの値が高いと通知が来ると、しぶしぶ医者に一度は行くが、出された薬は一度も飲んでいない。最後は介護施設に入ったが、頭以外はすこぶる元気で結局、薬は飲ませないでと言う希望通り最後まで飲まずに大往生した。そんな母よりもっと健康的な人生を歩んでいる人は結構いるが、医者は病人としか付き合わないから、冒頭のような錯覚に陥るのだろう。
 日本医師会も痔見ん党の強力な支持団体だが、病院にかからない老人がいることに「そんなことありえない」と驚くよりも、日本一の大嘘つきを延命させる執行部に「そんなことありえない」と言ったほうがいい。

達観

 ある大病院からの帰りに処方箋を持ってきた男性。林立する門前薬局を避けて僕のところに処方箋を持ってくる。数ヶ月前に初めてやってきてからしばしば処方箋を持ってくる。悪い病気で治療薬のために体中がむくんでいる。
 今日もやって来たのだが、処方箋を置いて又取りに来るという。待つ時間がもったいないほど忙しい生活を送っているわけではない。僕が理由を尋ねる前に向こうが白状した。「帰りにいっぱいやって、運転がしばらく出来ないから、薬局が閉まる前に取りに来るわ」そうか、成る程、大病の割りに血色がいいと思った。病人にはとても見えない。酒が回っていたのだ。さすがに運転は奥さんがしているが、酔いが覚めたら自分で運転してやってくるらしい。
 僕はその男性のおおらかさに、なんともいえぬ心の安らぎを覚えた。誰もがいちばんなりたくない病気で、見るからに調子悪そうなのに、病院帰りにいっぱい引っ掛ける。達観と言う言葉はこうしたときに使えばいいのだろうか。身の回りにそうした人がいないから、とても新鮮に思えた。僕より一回りは年上だが、僕もいずれあのように振舞えるのだろうか。何事にも固執せずに、おおらかに振舞えるのだろうか。
 ああした人は、処方箋をサラリーマン化した薬局に持っていくのは抵抗があるだろう。マニュアル化した言葉のやり取りにはまず耐えられないだろう。牛窓弁で不器用な表現が飛び交う空間でないと居心地が悪いだろう。
 多くの同業者が門前調剤薬局を止め始めた。国の方針で長い間いい目をさせてもらった人たちだ。逃げ得か、逆に経営悪化か知らないが、地域を捨てるように僕には見える。何十年もお世話になった地域の人を、東京などの大資本の薬局に譲渡していいのだろうか。土着のものだからこそ解決できることも多いのに、コンビニと同じく全部東京の言いなりになるのだろうか。一握りの人間が政治屋を動かし富を集中させる時代に、健康や命までも商品にされ、ポスレジの中に吸い込まれていくのだろうか。

金融機関

 いつからこの手の機関に足を運んでいないのだろう。牛窓に帰った当初、最初のうちは役に立たなかったから、こうした雑用めいたことをさせられていた記憶がある。と言うことは40年ぶりと言うことになる。
 今日も僕が行くつもりはまったくなかった。ただ、僕の代理で妻が数回足を運んだのだが、そのつど書類に不備があり痺れを切らせてついに向こうから呼び出しがあった。かくも金融機関は融通が利かないものかと思いながら、足を運んだ。運ぶと言っても車なら1分もあれば行ける所なのだが、その1分でも僕にとっては無用の動きのようで気が重かった。
 案の定、僕の必要はなんだったのかと言うくらいの内容だった。僕でなくても代理で十分だ。書類を持って行って、控えをもらうだけなのだから。ただ僕は確信した。40年もこのような所に来なくてすんだ自分は幸運だったのだと。預けるのでもなく、借りるのでもなく、ひたすら仕事をしていればよかったのだから。妻がそうしたわずらわしさは全て引き受け、仕切ってくれたから、苦手な分野で頭を悩ませる必要はなかった。
 生きていくのがとても難しい、緊張を強いられる時代に、恐らくその際たるものに対するストレスを回避させてもらったのはとてもありがたい。薬剤師の父は、結構そのあたりが得意?好き?で薬剤師以上に専念していたような記憶があるが、薬剤師として薬局として、果たして地域のためになっていたのかと問われれば素直にイエスとは言い難い。
 僕は若い時から多くの物を持たない様に意識して生きてきたが、そしてそれでも持ちすぎたが、恐らくそれらは僕の心の安定に貢献してくれている。失って怖いものなど持たないがいい。なくしても笑って済ませられる、いやいや気にもならないようなものだけ手元にあればいい。