湿度

 朝の6時頃、漢方薬を作ろうと機器の電源を入れた。その時に僕が決まってすることがある。それは湿度の点検だ。漢方薬局の多くは恐らく薬の量を症状にあわせて微調節しているだろうから、分包機を使うときにかなり繊細になっていると思う。特に僕が中心的に使っているのは台湾の漢方薬だから、混ざり物が少なく極めて湿気やすい。下手をすると作っているときから湿り始める。皆さんに送るときにはチャックつきのビニール袋の中に乾燥剤と一緒に入れて送るがそれでも2週間持たずに固まりかけることもある。冷凍庫で保管していただければ湿度ゼロだからいつまでもサラサラなのだが、忙しくてそうは言っておれない人も多い。そういった人は結局八橋みたいになった漢方薬を飲む羽目になる。まあ効くことには影響しないからそれはそれでいいが、僕も常連だが、極めて飲みづらい。
 僕がそこまで分かっていて、日本の漢方薬にしないのは単純に効きにくいからだ。出来れば全員煎じ薬にしたいくらいだが、これは飲む方の理由でかなり難しい。そうなればなるべく煎じ薬に近い粉薬を使いたいものだ。それにかなうのは台湾の漢方薬しかない。このことは多くの業者が認めている。認めていないのは〇〇〇の漢方薬を貰ってありがたがっている患者さんと医師くらいなものだ。薬剤師もそうか。
 今朝、電源のスイッチを入れたときの湿度が76%。これでは漢方薬を分包する事は不可能だ。だから僕はヘアドライヤーで機器を乾燥させる。すると漢方薬が袋の中に均等に落ちてくれる。薬局が9時に始まるが、そのころ65%くらいに湿度が落ちた。乾燥させる時間は短くて済むが、それでもヘアドラヤーは必要だ。その後空が一気に青空になった。10時過ぎには湿度が50%台に落ちた。この程度なら乾燥させる作業はいらない。安心して効率よく作れる。僕が今日感動したのは、如何にクーラーを寒いくらいに温度設定をしても、湿度の下がりようが遅くて、効率が悪かったのに、太陽が少し照っただけで湿度が一気に落ちたことだ。太陽を他の何物とも比べられないが、その力たるや物凄い。あれだけ遠いところに存在するものの影響があまりにも強すぎる。ほとんど無限大のエネルギーの塊の偉大さを、ほとんど無限小の田舎薬剤師が漢方薬を通して知ることになった。面白てやがて悲しき「湿度」かな。

 去年の夏以来かもしれない、こんなに強い雨が降ったのは。と言ってもさすがに牛窓は瀬戸内地方で雨はそんなに強くない。よその人から見たらそれで強い雨などと言うなと叱られるレベルだろう。1時間に何十ミリと言うようなものではなく、我が家の駐車場に水溜りが出来たというレベルだ。茶色い水溜りが広がったのを見たのは久しぶりだった。
 その雨が夕方には上がって、雲の間から晴れ間が広がってきた。急に明るくなったので嬉しくなって外へ出てみると東の空に虹がかかっていた。「虹が完成している」と言いながら僕は一人で見るのはもったいなかったので家族に教えた。すると娘は薬局の入り口から、妻は裏の事務所から外に出て眺めた。僕が完成と言う言葉を使ったのは空に浮かぶ虹が何処も途絶えていなかったのだ。虹は本当に時々しか見ないが、なかなか半円を途切れることなく見ることが出来る機会は少ない。自然の作る芸術だ、鑑賞しない手はない。
 しかし、さすがにじっと眺めているタイプではないから、薬局に戻って簡単な作業をこなしてから再び戻った。すると何てことだろう、南の地上に近いところだけを残して8割がた消えていた。僕は虹がこんなに短い間しか見えないことを知らなかった。ほんの数分だったと思うが、こんなに短い時間なら何かお願いしておけば良かったと、流れ星と本気で間違えて考えていた。
 少しの時間だったが虹を見て喜んだ。こんなことで喜ばなければならないほど気持ちも体も疲れているのかと思うが、自然の創作物には人の力など及ばない事実確認もまた、僕には新鮮だった。

平和の詩 生きる

沖縄慰霊の日に式場で朗読された詩を下記にコピーして張り付ける。沖縄に暮らす中学生の詩なのだが、完成度のすばらしさは圧巻だ。詩を書く能力は勿論、溢れんばかりの感性の持ち主だと思う。知性と正義感が痛いほど伝わってくる。多くの人が彼女の朗読を見たかもしれないが。もし見ていなかった人がおられたらあまりにももったいないのでコピーを読んで欲しい。録画もインターネットで見ることが出来るから是非彼女の声とともに言葉をかみ締めて欲しい。ちなみに新聞でも書かれていたが、彼女の後にアホノミクスが紙切れを懸命に読んでいたそうだ。どうせ疫人が書いた当たり障りのない気持ちなどまったくこめられていないものだが、よくもこんな低次元の人間を痔見ん党も担いでいるものだ。

 


平和の詩「生きる

私は、生きている。
マントルの熱を伝える大地を踏みしめ、
心地よい湿気を孕んだ風を全身に受け、
草の匂いを鼻孔に感じ、
遠くから聞こえてくる潮騒に耳を傾けて。

私は今、生きている。
私の生きるこの島は、
何と美しい島だろう。
青く輝く海、
岩に打ち寄せしぶきを上げて光る波、
山羊の嘶き、
小川のせせらぎ、
畑に続く小道、
萌え出づる山の緑、
優しい三線の響き、
照りつける太陽の光。

私はなんと美しい島に、
生まれ育ったのだろう。
ありったけの私の感覚器で、感受性で、
島を感じる。心がじわりと熱くなる。

私はこの瞬間を、生きている。
この瞬間の素晴らしさが
この瞬間の愛おしさが
今と言う安らぎとなり
私の中に広がりゆく。

たまらなく込み上げるこの気持ちを
どう表現しよう。
大切な今よ
かけがえのない今よ

私の生きる、この今よ。
七十三年前、
私の愛する島が、死の島と化したあの日。
小鳥のさえずりは、恐怖の悲鳴と変わった。
優しく響く三線は、爆撃の轟に消えた。
青く広がる大空は、鉄の雨に見えなくなった。

草の匂いは死臭で濁り、
光り輝いていた海の水面は、
戦艦で埋め尽くされた。
火炎放射器から吹き出す炎、幼子の泣き声、
燃えつくされた民家、火薬の匂い。

着弾に揺れる大地。血に染まった海。
魑魅魍魎の如く、姿を変えた人々。
阿鼻叫喚の壮絶な戦の記憶。
みんな、生きていたのだ。
私と何も変わらない、
懸命に生きる命だったのだ。
彼らの人生を、それぞれの未来を。
疑うことなく、思い描いていたんだ。

家族がいて、仲間がいて、恋人がいた。
仕事があった。生きがいがあった。
日々の小さな幸せを喜んだ。手をとり合って生きてきた、私と同じ、人間だった。
それなのに。
壊されて、奪われた。
生きた時代が違う。ただ、それだけで。
無辜の命を。あたり前に生きていた、あの日々を。

摩文仁の丘。眼下に広がる穏やかな海。
悲しくて、忘れることのできない、この島の全て。
私は手を強く握り、誓う。
奪われた命に想いを馳せて、
心から、誓う。

私が生きている限り、
こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対に許さないことを。
もう二度と過去を未来にしないこと。
全ての人間が、国境を越え、人種を越え、宗教を越え、あらゆる利害を越えて、平和である世界を目指すこと。
生きる事、命を大切にできることを、
誰からも侵されない世界を創ること。
平和を創造する努力を、厭わないことを。

あなたも、感じるだろう。
この島の美しさを。
あなたも、知っているだろう。
この島の悲しみを。
そして、あなたも、
私と同じこの瞬間(とき)を
一緒に生きているのだ。
今を一緒に、生きているのだ。

 

だから、きっとわかるはずなんだ。
戦争の無意味さを。本当の平和を。
頭じゃなくて、その心で。
戦力という愚かな力を持つことで、
得られる平和など、本当は無いことを。

平和とは、あたり前に生きること。
その命を精一杯輝かせて生きることだということを。

私は、今を生きている。
みんなと一緒に。
そして、これからも生きていく。
一日一日を大切に。
平和を想って。平和を祈って。
なぜなら、未来は、
この瞬間の延長線上にあるからだ。
つまり、未来は、今なんだ。

大好きな、私の島。
誇り高き、みんなの島。
そして、この島に生きる、すべての命。
私と共に今を生きる、私の友。私の家族。

これからも、共に生きてゆこう。
この青に囲まれた美しい故郷から。
真の平和を発進しよう。
一人一人が立ち上がって、
みんなで未来を歩んでいこう。

摩文仁の丘の風に吹かれ、
私の命が鳴っている。
過去と現在、未来の共鳴。
鎮魂歌よ届け。悲しみの過去に。
命よ響け。生きゆく未来に。
私は今を、生きていく。

判子

 毎日色々な会社から薬が送られてくるが、運送業者は4社だ。今日、その中のひとつが運んできてくれた荷物を受け取るときに、いつものように判子を押そうとすると、なにやら携帯電話みたいなものを僕の前に差し出し、サインしてくださいと言った。携帯電話にサイン?意味がわからなかったので尋ねると、細長い棒を僕に手渡し、画面にサインするように促された。昔、子供のおもちゃで棒でなにやら書いた後、用紙を剥がすと消えるようなのがあったが、まさにそのようなものだった。これで受け取りの証拠になるのか不思議だったが、言われるままに書いた。ところが結構難しくて、唯でさえ字が下手な僕がそれに輪をかけたのだから、ほとんどアラビア文字だ。日本語には見えない。「これでいいの」と自嘲気味に尋ねたが、まさかダメとはいえず笑いながら出て行った。あんなのなら誰が書いたか分からないだろう。問題は起きないのだろうかと不思議でならなかった。
 西濃運輸、お前もかと言いたいところだ。でも、あの強面の運転手のほうが僕より数段先を行っている。あんたには似合わないだろうと言いたいくらいだが、クールにこなしている。この手の物には付いていかないぞと僕は結構確信犯なのだが、時にその信念が揺らぐことがある。便利ではあるがよい方向に向かっているとは思えないのだ。便利の影でなにやら取り返しのつかない大きなものを失っているような気がしてならないのだ。出来れば僕は判子を押したかった。

同級生

 もう20年くらい前になるだろうか、薬剤師会の招きであるお医者さんが講演をした。そのことはよくある話で珍しいことではない。ただ、そのお医者さんが妻と同級生だと当時教えられた。中学校の同級生らしい。昔から優秀だったらしいが、その後医学部に行ったあたりまでは知っていた。偶然薬剤師会が招いたことでその医者さんの勤務先がわかって、やはりエリートコースを歩んでいるんだと感心していた。妻の友人が当時そのお医者さんに好意を持っていたらしいが、当然叶わない恋だったのだろう。
 昨日、ある総合病院から薬局宛の小雑誌が届いた。季刊号のようで時折届けられるから興味を引いたところだけ目を通す。昨日の小雑誌の見開きに、その病院の院長先生が大きく載っていた。髪は白いがかなりの部分もう生えていない。顔には深い皺が刻まれ、瞼ももうかなり垂れ下がっている。ネクタイをきちっと締め、糊付けでとんがりそうな白衣を着てカメラに向かって微笑んでいる。年のころなら70歳代中盤。下手をすると僕より一回りは大きそうだ。さすがに大病院の院長先生だけあって、品に溢れている。
 院長挨拶と言うタイトルの下に大きな写真。院長先生のあいさつ文が載っていた。何気なくい読んでいたら、かつて教えられた同級生の名前と似ていることに気がついた。早速妻に尋ねてみたら同じ名前だった。そこで写真を見てもらうと、やはりかつての面影があるみたいで、間違いないと言っていた。
 これには僕も驚いた。老けると言ってもここまで老けるかと言うレベルだった。どう見ても僕と同じ歳には見えない。勉強に費やした時間の長さ、患者に対峙した時の使命感、高級料亭での食事、上流階級との付き合い、僕には全く縁のないものばかりだから、これ以上想像できないのだ。恐らくそうした恵まれた才能の持ち主だけが体験できることが逆にプレッシャーだったのかもしれない。
 知能も学歴も経歴も肩書きも、全てが劣っている僕のほうが見た目は圧倒的に若い。あれだけのものを手にする代償が、あの老け様だったら僕は何も要らない。無気力な表情でいい。分相応、頭がない分、見た目くらいは勝たせて欲しい。

満足

かの国のある女性が、通訳を介して質問して来た。不思議な質問だったが、その女性にとっては長い間、引っかかっていたのかもしれない、結構真面目な顔をしていた。文化の違いを感じていて、それを確かめたかったのかもしれない。
 「オトウサンは、スーパーへ行かないのですか?」と言う質問だったが、最初は質問の意図が分からなかったので「滅多に行かない」と答えたが、実は結構行く。恐らく彼女は、僕が買い物籠をぶら下げて、商品を一杯籠の中に詰め込むような姿を目撃しないから不思議に思ったのだろうが、さすがにそれはしない。その手のことは全て妻の分担だ。かの国では男性がよく手伝うというか家事は共同作業らしいから、僕の姿を近所のスーパーで見かけないのが不思議だったのだろう。
 僕は日曜日だけスーパーに行く。買うのはジュースに酒を混ぜているような飲み物で、アルコール濃度が3%か6%のものを買う。味はレモンとかグレープとか色々ある。多くを経験したいから、毎回掘り出し物がないかよくチェックしている。それ以外は基本的には買わない。1週間の僕へのプレゼントと言うかご褒美がそれだ。せめて日曜日だけはそれらしく。
 ところがその時に嫌な経験をすることが多い。一所懸命喋っている、マニュアル化して心がこもっていない場合もるが、店員に対して全くの無言を通す人が多いのだ。頭を下げることもしない。子供連れの人もやるが、子供はそれをじっと見ていて、頭の中にインプットされてしまうから、人に何かをしてもらったときにお礼を言うような常識は育たない。そんな子が大きくなったらその親に反旗を翻すことも多いことを覚えておくことだ。何を勘違いしているのかしらないが、自分のほうが立場が上とでも思っているのだろうか。そんな親に限って、自分の仕事上はへりくだったりしているものだ。どこかで穴埋めをしなければもたいないくらい日常に自信がないのだろう。
 たった100円そこらのお酒で、僕は満足。

DRUM TAO

 DRUM TAO の公演に初めて行った。その感想を書こうと思うが、例によって音を言葉で表現するのは素人には至難の業だ。加えてTAOの舞台は視覚に訴えるものが多くて、これまた表現の未熟さを嘆く。
 僕が今まで太鼓の公演に行った回数は、3桁に迫るかもしれない。ひょっとしたら既に越えているかも知れないが、視覚に訴えるものは初めてだ。剣舞を始め、踊りも多いし、映像技術を駆使してのパフォーマンスも見事だった。ややもするとその完成度の高さで、太鼓の音が聞こえないくらいだった。いやいや、今日もまた和太鼓の響きを堪能しにここまでやってきたのだと途中で自分に言い聞かせなければならないくらいだった。
 それでも、そのパフォーマンスに太鼓の技術が遅れているように感じることはなかった。むしろ太鼓の技術もさすが世界を相手に活躍しているくらいで、本物の完成度だ。DRUM TAOの実力が他のプロ集団に比べてどの程度か僕は知らないが、少なくとも今日見た、聴いた太鼓の技術や音を超えているチームをまだ知らない。
 一緒に行ったかの国の女性達も既に数回コンサートに行っているが、さすがにTAO の公演には驚いたみたいで、誰一人居眠りすることもなかったし、4人とも終始前のめりになって聴いていた。拍手のタイミングもよく和太鼓が分かった人のタイミングだったが、万国共通なのかもしれない。
 4人の中の1人が来月3ヶ月の応援を終えて帰国する。その女性は、あたかも日本の思い出を脳裡に焼き付けんとしているかのように力強い拍手をいたるところでしていた。その思い出作りに少しでも貢献したいと始めたおせっかいも、段々エスカレートしてついにTAO まで上り詰めた。これはかの国の若い友人達のおかげだ。