9880円

 胃カメラをもう抜いてもらえるのかなと思っていたら、突然「染色液を用意して」と言う声が聞こえた。ああ、やっぱりと思ったが、それでも一瞬のうちにあきらめってつくものだ。まあ仕方ないと思った。いつか息子が「初期の癌ならみな治る」と楽観的なことを言っていたから、何となくその事が最近の恐怖感を弱めてくれている。寧ろ今日がいやだったのは、又胃カメラを飲んでゲエゲエ言い、涙をこぼして、げっぷと格闘するのかというトラウマだった。ところが今まで経験したことのないくらい楽で、2回オエッと言っただけで、後はこんなに楽なのかと不思議なくらいだった。途中からは肩に力も入らずに自分の胃の中をモニターでずっと眺めていた。  僕が今まで検診を受けていた開業医は、ある大きな病院の消化器部長をしていた人だが、それはもう辛かった。ただ日曜日にカメラをやってくれるので有り難かったが、毎年その時期が来ると憂鬱になっていた。エコーもやってくれるのだが、お腹を1分位で診てくれる。ところが今日はお腹のエコーだけでも10分は診てくれた。若い女性で医師か検査技師か分からなかったが、それこそ至る場所を至る方法で診てくれた。えっこれが本当のエコーなのと驚いて、去年まで僕はいったい何を根拠に喜んでいたのだろうかと不安になった。大病院の検査と開業医では雲泥の差があると、再認識された。エコーで診てくれた若い女性に終わってからどうですかと尋ねたら、異常ありませんと答えた。ホッとしてついでに頸動脈の動脈硬化も調べてくださいと言ったら、それは又予約してからですと言われた。その辺りはさすがに融通が利かない。その女性が僕のカルテを診て、同じ名字の先生にかかっておられるのですねと面白そうに言ったので「偶然です」と答えた。  胃カメラがすんだら、呼ばれてパソコンの画面を見ながら説明を受けた。もうそこにはすでに1時間前に採られた血液検査の値も出ていて、コレステロールだけが高かった。腫瘍マーカーも正常だった。これは特に希望して検査してもらいたかった項目だ。さてさっきの染色した胃の内部だがピロリ菌がいる人や、嘗ていた人特有の状態で用心しなければならないとのことらしい。異常ないとのことだったので安心したが、用心のしようがない。萎縮性胃炎もあるらしいから、顔と同じように胃の中も歳をとっているってことだろう。一応の説明がすんで初めて息子が言葉使いを変えた。それまでは全く職業上の言葉使いだったが、初めて親子の言葉を使った。  実は、親の病気を見つけさせるのが忍びなくて、息子に診てもらったことはなかった。ところが彼がさりげなくいつでも診てあげるよと言ったので、そんなにプレッシャーを与えないのならいいかと思えた。そうなるとさすがに便利で、短時間に3つの検査をしてもらえた。親ばかかも知れないが、驚くほど胃カメラが楽だった。もともと器用な子だったから旨いのかも知れないが、看護師さん達も大変誉めてくれていた。僕の前の患者さんがどこかの看護師さんで、わざわざ息子を指名してきたらしいから、まんざらお世辞ではないのだろう。車の運転が旨ければいい医者になれるなんて、程度の低い例えを言っていたが、意外と当たっているのかも知れない。  勉強は嫌い、スポーツ大好きの家系だから、人とのつき合いも裏表がない。看護師さんやスタッフと対等につき合える子でその雰囲気は検査室の中にも伺われた。寧ろ医師との関係のほうが下手な子かも知れない。  しめて9880円で当面の保証をもらってきた。しかしそれでは買えないくらいの息子の日常をかいま見れた。子供は親のためにあるのではない。社会のためにあるのだと、僕は彼が就職した時から思っている。