屈辱

 都会でこのようなことが行われるのかどうか知らないが、今日は溝掃除の日。梅雨を前にした6月の日曜日に毎年繰り返される行事だ。牛窓中で朝の7時から溝を掃除する。コンクリートで蓋をしたところは無理だが、グレーチングは外して、蓋がないところはそのままでスコップで堆積した泥を取り除く。
 年に一度ボルトを緩めて重いグレーチングを外すのだから、なかなか大変な作業だ。何年も交換していないからナットが錆びている。だから色々な工具を持ち寄り、工夫と腕力で事をなしていく。工夫の部分は、現役時代従事していた仕事が役に立つ人が多くいて困らないのだが、腕力の部分は心もとない。それを証明するような出来事が今朝の現場で起こったので披露する。
 二人がかりでボルトを緩めていたがびくともしない。そこで僕はKURE55を家から持ってきて、ボルトに吹きかけた。これが僕がした作業のすべて。さすがに若いころはスコップで溝に堆積した土砂をすくっていたが、最近は、力仕事はほとんどしない。ぎっくり腰にでもなれば、仕事を数日休まなければならないから用心している。そんな都合がまかり通るのかと思われるかもしれないが、まかり通るのだ。というのは僕より年齢が上の人達はもうずいぶんと前から、口周りの筋肉しか動かしていないから僕も踏襲している。
 今日のほとんどの力仕事は僕より若い人たちがやってくれた。見ていて歯がゆいが、出来ないものは出来ない。僕など到底できないことをこなしていくからその若さが羨ましい。そこでつい出てしまった。「若いって素晴らしいなあ!」と。すると頑張っていた若い彼がはにかみながら言った。「若いって言われても、僕ももう60を超えてますよ」と。
 この答えに我ながらハッとした。若いという判断は、相対的なものなのではないかと思えたのだ。そんなことを考えたこともなかったが、ひょっとしたら人は年齢を相対的な物差しで測っているのではと思ったのだ。だから迂闊にも60台の人を若いと表現したのだ。
 60歳を若いと感じたのだから、70歳もその「若い」のご近所さんだ。ところがそうは思えない。しっかりと年寄りの部類に入る。客観的な評価では紛れもなく年寄りだ。それなのに自分を物差しにして事実とは相いれないような表現をする。
 唯一した作業が油を取りに帰ったこと。1分もあればできたことだ。老いるとはこうした屈辱になれることなり。

 

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