体裁

 薬を渡すたびにもうこれが最後になるかなと思っていた。昨日お姉さんから先月葬儀を済ませたと電話で教えていただいた時に、その懸念が現実になった。時間の問題だと思っていたから驚きはしなかったが、連絡をいただけたことには驚いた。もう30年くらいお会いしていないお姉さんで、僕が唯一の彼の知り合いの牛窓の住人だってことを覚えていてくれたからだ。僕も当時「弟をよろしくお願いします」と言われたことを思い出した。
 会社の移転にくっついてきた人で、かつては全国的に有名な会社の社員だったから、それも都会から引っ越してきたから、鼻持ちならぬ感じだったが、もともと山陰の生まれだから同じような田舎町の生活にはすぐに馴染んでいた。虚勢を張らなくても生きていけるところが彼にとっては居心地がよかったのだろう。ただ会社内では気に入られているようにはなく、僕のところに土曜日ごとに遊びに来ることを楽しみにしていた。当時の薬局は病院の薬を作るわけではなく、僕も地元の人だけをお相手していたから結構時間に余裕があり、店頭で1時間も2時間も煙草を吸いながらくだらない話をしていた。そのうち我が家で犬を飼い始め、犬好きの彼にその犬がたいそうなついて毎土曜日に散歩に連れて行ってくれるようになった。両者が楽しみにしていた。その散歩は10数年に及んだのではないか。
 またそのころ彼は20歳くらい離れた女性と結婚した。何とも生活感のない女性だったが、それをきっかけに一気に転がり落ちるように生活が乱れ経済的にも困窮していった。なけなしの退職金、中途退社だから少ないのは当然だが、そのお金をあっという間に共通の趣味に費やしてしまった。当然そうなると二人の関係も危ういもので、結婚届のハンコを押した縁で、何かもめ事があると相談を受けた。
 ある日、離婚届と結婚届の両方にハンコを押したことがある。別れたいと言うからハンコを押して上げた何時間後に、また結婚すると言うからハンコを押した。ただこの話には続きがあり、その数時間後にまた離婚したいからとハンコを取りに来たのだ。僕は本来結婚とか離婚とかにはほとんど興味がない。結婚を機に地獄に落ちた人も数多く知っているし、離婚を機に幸せを手に入れた人も多く知っている。そもそも人が結婚するとかしないとかどうでもいいのだ。だから僕は結婚した人におめでとうと言った記憶はない。息子や娘にも言っていないと思う。どうしておめでたいのかいまだ分からない。
 昔、農家で働き手がいっぱい必要だったころは、結婚し子供がたくさんできることが必要だったから、おめでたかったのだろうが、今は労働力としての子供は必要ない。また1億総庶民は、その次の世代に残すほどの財産を持ってはいない。大方の人は特別養護老人ホームになけなしの貯金を巻き上げられ終わりだ。墓石一つ残して、それすら子供に煩わしがられる。
 話が飛んでしまったが、その二人のことを思ってではなく、役場の職員にヤマト薬局はどんな人間だろと思われるのが流石に嫌になり3回目のハンコは押さなかった。
 結局その後3回目のハンコを押すことはなかった。生活することの困難さが分かったのか、夫婦でそれぞれの仕事を見つけ働き始めた。
 以来めったに薬局に来ることはなかったが、半年くらい前からまたしばしば来るようになった。来局の理由はかつて病院で出されていた間質性肺炎の薬を買いに来るためだ。もちろん薬局でそんなものが売れるはずもないし、彼が間質性肺炎の薬と信じ込んでいたのは、軽い鎮痛薬だ。恐らく何かの訴えに対して医師が処方してくれたのだろうが、肺に効く薬だと信じ込んでいた。歯痛にも効きそうにないくらいの鎮痛薬だが、彼は死ぬまで飲み続けた。
 薬を取りに来るたびに痩せ、幼稚園児の腕くらいに痩せた足で車を運転し、苦しそうな息をしながらやってきていた。まるでおぼれながら生きているようで痛々しかった。余命半年を公言し、たばこを吸い、やせこけた顔から眼が飛び出しそうだった。「自爆テロじゃ!」と言う僕に、精いっぱいの笑顔で返していたが、心の奥はどうだったのだろうか。早く楽になりたいと思いながら時間を早めたかったのではないかと思う。
 彼の死を悲しむ人がお姉さん以外にいるのかどうか知らない。30年ぶりのお姉さんの誠意に心を打たれた時に、彼の死が一瞬悲しかった。しんどい最晩年だっただろうが、不幸ではなかったと思う。そもそも、羨ましいくらい、あらゆる体裁から解き放たれていたのだから。