古民家

 いつまでこんなことができるのだろうと、ことあるごとにこのところ迷っていた。ところが一昨日、外部からいとも簡単に答えがもたらされた。これで何も迷う必要はない。ちょうどあと2年だ。
 もう10数年、縁あってベトナム人達を世話してきた。見方を変えれば彼女たちにとても親切にしてもらったともいえるのだが、このところの体力不足で、いつまでこんなことが出来るのだろうと自信を無くしていたのだ。日本の多くの文化を知ってもらい、職場では経験できない、水平方向の人間関係を体験してほしかった。そのためにも多くの催し物や、多くの町を訪ねなければならなかった。家族の期待を一身に集めてやってきている人たちの安全を最優先で行動した。車も安全重視で選んでいる。もともと運転がそんなに好きではなかったが、交代要員なしのドライブは結構気を遣う。そして特に夏に炎天下で観光をすると、とてもしんどくなり、一度宮島に行ったときに、宮島口のホームでしゃがみ込んだことがある。それ以来脱水症状には気を付けているが、それだけでは説明できないしんどさに襲われることが多くなった。
 先輩たちから伝えられて、来日する前から牛窓工場に配属されることを願ってやってきた彼女たちに、「私たちに限って」と言う失望感を味あわせたくなかったから途切れることなく頑張って来たが、いつかは限界を知り身を引かなければならないときがくる。できれば誰一人傷つけることなくこのボランティアを終えたい。
 そう悩んでいたところにふと、彼女たちが牛窓工場が2年後の6月に閉鎖されることを教えてくれた。日本人の幹部たちも知らなかったそうで、突然の決定みたいだが、このコロナで余裕がなくなったのだろうか。
 「オトウサン サミシイデッカ?」と顔を覗き込むから「お父さんは もう生きていけない」と言うと「ノイサオ ノイサオ(嘘)」と笑っていたが、正直僕はほっとした。自分の口から引退宣言をすることが悩ましかったが、その必要はなくなった。ただ寂しく別れるだけでいいのだから。
 何はともあれ、彼女たちともあと2年でお別れだ。ドライかもしれないが僕の頭はその後のことに向かって働き始めている。370坪の中に立っている古民家(今は彼女達が生活しているが)を、何か牛窓町のために利用できないかと思っているのだ。これはあの古民家を手に入れた時からの目的で、将来寮として必要なくなってからが勝負だと思っていた。それが僕の予想より早くやって来たので、息子たちに任せるのではなく、僕が決定にかかわれるようになった。地元の人たちに何かお役に立てれないかと、あと2年間思案できる。何かを作れるかもしれない、誰かを助けられるかもしれない、毎晩目を閉じるのが楽しくなってきた。