凶暴

 僕はマスクはしないが、さすがに混雑した新幹線はいやだと思って昨日の広島行きはこだまにした。1時間に一本は走っているので時間を工夫すれば利用できる。かつての経験で1車両に2,3人しか乗らないことも知っている。昨日は特に倉敷に用事があったから新倉敷駅から乗車することが出来た。一駅広島寄りと言うことだ。恐らく料金もいくばくかは安いだろうし、駐車場代も安いだろう。そして何よりも人の唾を受けることはない。
 新倉敷駅は、想像していたよりも簡素で、と言うか、なぜ新幹線が止まる必要があるのだろうと考えさせられるくらいのものだった。以前そのあたりから総理大臣が出たから、ご他聞に漏れず利益誘導だったのか。だとしたら国民は後世も延々と無駄な金を運賃などとカモフラージュされ払わされることになる。汚部なんかさっさと政界から追放しなければならないよい前例だ。
 予想通り行きも帰りもガラガラだった。一車両に降りるときはどちらも3人だった。唯一つの例外は広島から東広島のわずか1駅を利用した人たちが何人かいたことだ。子供連れが多かったように見えたが、やはりコロナウイルスを用心しての意図的な出費だったのか。
 実は、昨日の僕の判断は正解だったのか誤りだったのか悩みながら新倉敷から車を運転して帰った。と言うのはある程度は予想していたのだが、駅に止まるごとに10分くらい停車するのだ。後から来るのぞみ等を追い越させるためなのだが、必ずどの駅でも止まったし、どの駅も10分近かった。だから本来なら三原に着いた頃には岡山駅で降りているくらいなのだが、3倍近い時間がかかった。唯一の慰めは、新倉敷で降りたから、そこでの待ち時間15分を免れたことだ。その15分と新倉敷から岡山までの新幹線の時間を合わせると、牛窓へ帰ることができる三分の一を稼いだことになる。新倉敷から25分もかかれば在来線でも岡山に着く。
 東福山で「わずか一駅のここでも後ろから来る新幹線を待つんだ」と思い、次の三原で「ここでも待つのか」と思い、次の尾道では「ここでも待つのかよ」と思い、次の福山では「こんなところで待つなよ」と思った。これで新倉敷駅で降りていなかったら我ながらどれだけ凶暴になっていただろう。こだまとは性格を変えるほどの乗り物ナリ。コロナより実に恐ろしや。