達観

 ある大病院からの帰りに処方箋を持ってきた男性。林立する門前薬局を避けて僕のところに処方箋を持ってくる。数ヶ月前に初めてやってきてからしばしば処方箋を持ってくる。悪い病気で治療薬のために体中がむくんでいる。
 今日もやって来たのだが、処方箋を置いて又取りに来るという。待つ時間がもったいないほど忙しい生活を送っているわけではない。僕が理由を尋ねる前に向こうが白状した。「帰りにいっぱいやって、運転がしばらく出来ないから、薬局が閉まる前に取りに来るわ」そうか、成る程、大病の割りに血色がいいと思った。病人にはとても見えない。酒が回っていたのだ。さすがに運転は奥さんがしているが、酔いが覚めたら自分で運転してやってくるらしい。
 僕はその男性のおおらかさに、なんともいえぬ心の安らぎを覚えた。誰もがいちばんなりたくない病気で、見るからに調子悪そうなのに、病院帰りにいっぱい引っ掛ける。達観と言う言葉はこうしたときに使えばいいのだろうか。身の回りにそうした人がいないから、とても新鮮に思えた。僕より一回りは年上だが、僕もいずれあのように振舞えるのだろうか。何事にも固執せずに、おおらかに振舞えるのだろうか。
 ああした人は、処方箋をサラリーマン化した薬局に持っていくのは抵抗があるだろう。マニュアル化した言葉のやり取りにはまず耐えられないだろう。牛窓弁で不器用な表現が飛び交う空間でないと居心地が悪いだろう。
 多くの同業者が門前調剤薬局を止め始めた。国の方針で長い間いい目をさせてもらった人たちだ。逃げ得か、逆に経営悪化か知らないが、地域を捨てるように僕には見える。何十年もお世話になった地域の人を、東京などの大資本の薬局に譲渡していいのだろうか。土着のものだからこそ解決できることも多いのに、コンビニと同じく全部東京の言いなりになるのだろうか。一握りの人間が政治屋を動かし富を集中させる時代に、健康や命までも商品にされ、ポスレジの中に吸い込まれていくのだろうか。