不便益

 今朝初めての言葉を、毎日新聞の朝刊で見つけた。京都大学の教授の文章の中に見つけたのだが、僕の生き方を肯定してくれるようなものだった。僕は極端な生き方をしているわけではないが、ゆるゆると自分の価値観に従って生きている。
 初めて見た言葉は「不便益」と言う言葉で、その反対が「便利害」だ。これらは読んで字の如くで「不便なものの中に有益なものが隠れている」「便利なものには害がある」と言う意味だ。もともとはなかった言葉だが、その教授か、教授の先生がつけた名前らしい。
 いくつか分かりやすく例を挙げていたが、記憶にあるものの中からひとつ披露すると、カーナビのおかげで人は道路を覚えることが苦手になった。逆は老人ホームであえて段差をつけたり勾配をつけたら、筋力の弱りを防ぐことができ、認知症等を抑制できた。
 すべてが効率を優先する時代に、社会を計る物差しを変えるべきだと言う発想だ。僕も多くの現代科学の恩恵を受けているが、かたくなに拒否しているものもある。具体的には時計とカメラとスマホ。時計はもう40年くらい持っていない。商店街を歩いて少し覗き込むと時間はすぐ分かる。極端なことを言えば時間を人に尋ねれば誰もが教えてくれる。カメラはいまだ人生で持ったことがない。写してしまうと、風景が平面になってしまう。薄っぺらい四角なものに閉じ込めて、アルバムを開かない限り思い出さない。ところがしっかりと脳裏に焼き付けるといつでも立体的に思い出すことができる。香りや風や空の青さまで同時に思い出せる。スマホは自由を奪われるからもたない。公衆電話が減ったから不便だが、電話も必要ないくらいの自由さは何物にも変えがたい。
 教えられたのではないが、ある程度の不便益を僕は実践していたことになる。多くの相談者に、既製品を売るのではなく、一つ一つ症状を確認し薬局製剤を作る。医院の前に門前薬局を開き、医師の言うがままの薬剤師にはならない。だからこそ、存在を許されているのだと思う。こんな気性で本当によかった。