紙一重

 僕より一回りくらい若い男性が、ある症状を訴えてやって来た。2週間くらい前から現れた症状だ。本人は自分なりの推理をして訴えているが、僕にはそれがストレスから来ているとすぐに分かった。初めてその症状が出た頃に何かストレスがなかったか尋ねると、「ある」と即答した。
 症状の説明を終えると彼がボソッと口にしたことがある。ただ、本当にボソッだったから聞こえにくかった。「迷惑をかけないでと言うんよ」最初は意味も分からなかった。勿論この短い文章だけの意味は分かるが、主語と目的語が分からなかったのだ。自分の症状を説明していた流れから出た言葉だから、主語は彼だと思ったが、なんとなく意味が通じない。そこではたと気がついた。もしかしたら奥さんが、自分に迷惑をかけないでよと言っているのではないかと。
 そのことを話すと、彼は「そうそう、その通り。迷惑をかけんようにしてくれと言うんじゃ。考えられまあ」そこで考えられないと同調すればいいのだが、考えられるから「考えられない」とは言えないのが僕だ。遊ぶことが得意でない彼はそれこそよく働いていると思う。確かに酒は良く飲むが、静かに飲むタイプだから家族にも迷惑はかけていないと思う。非の打ち所は間々あるが、悪人でも怠け者でもない。それなのに奥さんからは「迷惑をかけないで」と言われる。迷惑が何を意味するのか分からないが、彼の稼ぎから言うと金銭面でなく健康面だろう。
 ただ健康面と言っても、健康に気をつけて病気をしないでと言うメッセージではない。「面倒を見させないで」と言うメッセージだ。「看病なんかさせないで」と言う、メッセージだ。「俺は我慢するタイプだから何も言わんけれど、面白くねえよ」と言う彼は自嘲でも自虐でもなく、悲壮だった。
 東の方で、孤立して生きていた人間が、幸せそうな人を襲った。家族がいても孤立している人はたくさんいるのではないか。犯人と紙一重の人たちもたくさんいるのではないか。ただ、ちょっと不幸が、ちょっと幸せを襲ってはいけない。彼の家のように外から見ても分からないが、実際には似たり寄ったりなのだから。似たりも寄ったりでも出来ないような悪い奴等が待っているではないか。