悪夢

 かなりの動悸で目が覚めたから、夢の中で相当慌てていたのだろう。それはそうだ、ぜひ乗らなければならない新幹線で、どの扉も開かないのだから。新幹線の扉を開けて乗るという経験はないから、そもそもどうやったらドアが開くのか分からない。だから無理やり指をかけて開けようとするがそんなもので開くはずがない。そうこうしているうちに何故か乗り込むことができた。ただ、目的地とはまったく異なるところに行く新幹線だった。そこであがいても仕方ないので諦めたあたりで目が覚めた。
 僕は患者さんとの問診で悪夢を見るかどうか尋ねることがある。まさに僕が昨夜見たのは悪夢だ。激しく打つ脈は結構しんどかった。悪夢を見るほど追い詰められているのかと自分でも不思議なのだが、その自覚はない。数ヶ月前、力量を超える数の漢方薬を作っていた頃にも同じようになったが、今はほどほどのバランスを保って気力体力を超える仕事はしていない。それなのにどうして悪夢を見てしまうのだろう。
 新幹線の登場には確かに理由があった。昨日福山のバラ祭りに9人のベトナム人を連れて行ったときに、もし体調がよくなければ一人で新幹線で帰ってやろうと決めていたのだ。1時間のところが15分で帰る事ができるから、急を要すれば避けられない選択肢だ。行く前からその程度の心の準備をする必要があるくらい、何が起こるかわからないくらいの年齢になたってことだ。日本の文化や風習などをできるだけ多く経験してほしいと思う反面、いつまでこんなことができるのかと言う不安が常に交錯しているのが最近の実情だ。その不安感のなせる業が昨夜の悪夢だったとしたら、すでに意義を不安感が圧倒しだしたってことだろう。若かったら何も心配することがないのに、若くないから何もかも心配に変わってきた。同じように食べ、同じように歩き、同じように笑っても、内実はボロボロ。誰もが通る道は、結構険しい道で、よく先人たちはそれを口にせず堪えていたものだと感心する。遅かれ早かれ誰も避けられないから、覚悟の日々だったのだろうか。
 悪夢はやがて、悪夢のような日々に変わるだろう。