老犬

 鍼の先生との約束の時間にまだ時間があったので、小川に架かる橋の上でせせらぎの音を聞きながら長距離運転で疲れた体と心を休めていた。岡山市の北のはずれは、あたりに田んぼが広がっていて、夕暮れ時だからだろう時々犬を連れた住人が通る。主要道から一歩外れた通りだから地元の人しか通らない。車も恐らく地元の人のもので、数分に一台通るくらいなものだった。
 そんな中、明らかに他の軽やかに散歩する様子とは違った犬がいた。飼い主が尻を一押しすると2,3歩歩き止る。ゆっくりと首を動かしまわりを伺う。すると又飼い主が尻を押す。そして数歩歩いただけで立ち止まり、おもむろに周りを伺う。
 夕暮れ時ではっきりとは見えなかったが、経験からすぐに老犬を散歩させているのだと分かった。犬がいちばん喜ぶと言う散歩を律儀にこなしている飼い主と、それに応え切れない老犬の狼狽振りが伝わってくる。思わず僕は声をかけた。
「老犬ですか?」
「はい、15歳です」
「目は見えるんですか?」
「右目はもうぜんぜん見えていません」
「僕もつい最近、犬を亡くしたのでよくわかります。お大事に」
「ありがとうございます」
お大事にと言う言葉が自然に出てきた。犬を擬人化してしまったために使ったのかもしれないが違和感はなかった。一瞬正しい言葉遣いかどうか口に出した後迷ったが、その言葉に勝るものはないと納得した。
 いつか見た光景が突然夕暮れの町で再現されて僕の記憶が一気に巻き戻された。10数年一緒に暮らした愛犬2匹をそれぞれ見送ったが、幸せに過ごした日々より、最期の頃の姿ばかりが思い出されて、哀しさに襲われることもしばしばだが、あまりにもリアルな光景を見せられて、もうすぐにでもやってきそうなその犬の最期を想像して哀しかった。そしてそれは同時にやがてやってくる僕自身の姿でもあるのだ。多くの機能を失い残された機能だけで命をつないでいる老いの姿だ。希望などあるはずがない。幼少の頃毎日のように預けられた母の里で聞いたせせらぎの音が60年を経て蘇る。ああ、なんて夕暮れの似合う里なのだろう!