山麓窯

 昨日、備前山麓窯へベトナム人女性を4人連れて行った。彼女たちの目的はもちろん梅を背景に写真を撮ることだが僕は和太鼓の野外での演奏だ。普段見る機会がほとんどない県内の地元密着のチームが毎年交代で演奏する。和太鼓評論家の僕としては見ておかねばならない・・・なんて偉そうな感じではなく、それはそれで十分楽しませてもらえる。太鼓は2の次だった彼女らも演奏が始まると舞台の前に集まり、立ち見で最後まで聴いていた。それどころか2人の女性は動画で撮っていた。和太鼓はかなりの確率で外国人に感動を与える。
 そんな楽しい時間を過ごすことができたのだが一つだけいやな光景を目にした。彼女らが写真に夢中の時間帯、僕は寒さから逃れるために備前焼の展示場兼喫茶室でコーヒーを飲んでた。すると僕より一回り下くらいの女性が、相手が携帯電話に出ないことを口汚くののしっていた。注文したものが出来上がったのに、喫茶室に入ってこないことへの怒りのように聞こえた。なぜなら店の人に謝っていたから。その後女性は出て行ってまもなく、それこそ僕の一回り上くらいの男性を連れて帰ってきた。そしてさっきの電話に出なかったことを責めていた。ただ、その叱責は男性には聞こえているのか聞こえていないのか、、じっと黙っていた。その光景を理由に「お父さんは、耳が遠くなって、コールしている音が聞こえなかったんです」と店の人に説明していた。そして「太鼓がもう始まるから先に行くよ。椅子が少ないんじゃから」と言い残して出て行った。
 その後男性はゆっくりとコーヒーを飲んで、そしてカップなどを返却口に戻して静かに出て行った。
 家庭内で普通に交わされている会話だから、それが見たくなかった光景ではない。いつか遭遇する自身の光景と重なっただけだ。懸命に生きてきたつもりでもなかなかか家族には評価されない。ある意味家族とは残酷なものだ。だからそれを自ら壊す人や、最初から作らない人たちが多いのだろう。幸せなんてあやふやなものだ。色も形も匂いもない。だからそんなもの、元々手にとることはできないのだ。