硬直

 電話の向こうの声はとても元気だ。数年前に聞いた声とはぜんぜん違う。この数年間、もっぱら連絡はお嬢さんからだったから、声を聞いていない、ただ2週間に一度家族中の漢方薬の電話注文は入っていたからお母さんの様子は把握していた。
 決して横着ではなかったが、何しろ目が回るから起きられない。1日中寝ているというのが実情で、ほぼ外出はしなかった。その結果筋肉は衰え、家の中を歩くのでさえ危なっかしい。
 ただ漢方薬だけはまじめに飲んでくれた。その結果、めまいはなくなったがめまい恐怖症は残った。以前のように完全に引きこもることはなくなったが、それでも月に数回しか外出しない。どんどん外出して自信をつけてとお願いしても不安感のほうが勝るのだろう、腰は重かった。
 ところが今日の電話で最近の日常を尋ねると、1日7時間は立って家事をこなしていると言う。実際声もずいぶんと大きくて元気になったとは思ったのだが、7時間も立ちっぱなしで過ごしているという報告には驚いた。どのくらいの期間でそこまで活動できる時間を増やしていったのかは分からないが、ほぼ普通の人に近づいている。そこまで変わった理由を尋ねると、お嬢さんが仕事に出だして家事をする人がいなくなり、仕方なくやっているそうだ。「私がしなけりゃあ、誰もしてくれんのじゃもう」と言うが、声に悲壮感はまったくない。
 家事をこなすことで、買い物などの外出機会も増えて必然的に歩く距離が増えて筋力が少し戻ったと言っていた。お嬢さんが心置きなく仕事に出かけられるくらいまで体調を戻すのには漢方薬は貢献できたかもしれないが、筋力を増やすところからは漢方薬の力ではない。「私がしなきゃあ仕方ない」状態の貢献によるものが全てだ。このように人はモチベーションでずいぶんと変化できる。年を取ると僕も確実に仕事をしたいから、時に相談者のやる気を聞いて薬を作り始め、モチベーションの持続を確かめて継続のための薬を作ることがある。何が何でもという若いときの力みはなくて、確実に貢献できる人を選択し、身を守りながらお手伝いするよう心がけている。
 医学も驚くほどのスピードで発展しているが、それに取り残された病態は結構あり、漢方薬が貢献できる分野は減るどころか増えているような気さえする。漢方薬を究めていた同業の人たちが世を去り、必然的に商圏が広まり、気力、体力以上の仕事を強いられているのが現実だ。寝てばかりの人を7時間立ちっぱなしにしたようなモチベーションを僕自身も見つけ、せめてもう数年と思うが、内憂外患状態では明日の保証もない。
 春が足早にやってきて、重い上着一枚を脱がせてくれたが、心も体も相変わらず寒さで硬直している。