夜の9時半。まだシャッターを全開で僕は仕事をしている。いつもの時間なら、夜のウォーキングから帰ってくる時間なのだが、今夜は、それこそシャッターを新設してくれた業者が親切にも、その近辺のタイルの目地の汚れが気になって、きれいに塗装してくれているのだ。契約以外の親切が今、この時間に行われている。娘たちが知り合いになった若い現場監督が勤める建築会社にこの数年いろいろ発注しているが、丁寧な仕事に驚かされている。丁寧に親切が今夜重なった。
 薬局をこの場所に移転して30年以上経った。何かと老朽化してメンテナンスを繰り返している。よほど用心をして持ち上げないと腰をやられそうなシャッターも娘夫婦が僕に無断で新しいものを取り付けてもらうように契約した。腰より倹約世代の僕には若干の抵抗はあった。ただ実際には、このところ肩も痛めてほぼ満身創痍状態で朝晩シャッターと格闘していた。それを見かねたのかもしれないと思えば抵抗も薄らぐ。僕の代わりに娘が時々シャッターを持ち上げてくれていたから反対はそもそも出来ない。
 今朝はじめてそのシャッターが自動で上がるのを見た。静かな音でゆっくりとすべるように上がる。スイッチひとつで何の貢献をしなくてもことがすむ。昨日までのことが何だったんだと言うくらい気持ちが楽だ。壊れかけたシャッターはとても重くて毎日が一か八かの勝負のようだったが、これでそれが原因で骨格を傷めることはなくなった。これから筋骨の衰えによるダメージとの戦いが続くが、リスクは避けれるなら避けたほうがいい。倹約という尊い精神も予想される痛みの余生とは取引できない。
 このところのメンテナンスの連続で感じたことは、お金を出せばいくらでも便利を買える。きれいも買える。僕のレベルでそんなことが実感できるのだから、ある人間たちは思っているだろう。金を出せばいくらでも人間が買えると。この国の中間層から底辺の人間まで、いやいやアジアのもっと貧しい人間たちまでを。鎖の変わりにこぎれいな服は着せてはいるけれど。