退場

 耳が遠くなったのかなと思わせられるくらい小さな声で電話をかけてくる女性だった。実際、僕の耳が遠くなり始めても不思議ではないが、他の人とは明らかに聞こえにくいので、ご本人の声はかなり小さいのだと思う。妻が電話を取ったときにも同じ感想を述べていたから、僕の老化現象だけではないのかもしれない。
 そんな女性が先日の電話の時に初めてよく聞こえる声で喋ってくれた。耳が痛くなるほど受話器を押し付ける必要がなかった。ただただ元気になってくれたから声が出だしただけなのだ。この方は、僕に相談してくださる前に沢山の漢方薬を飲んでいた。何のために何々と教えていただいたが、僕には理解できなかった。当然何となく効果を感じるものもあったみたいだが、僕に言わせればその効果に根拠がなかった。こうした内容の漢方薬だから、このようなことが期待できると当たり前の因果関係が見つからなかった。病院で出された漢方薬か、漢方薬局で購入したのか、ドラッグで自分で選んで買ったのか分からないが、いずれにしても全くの的違いだった。
 小学校から体調不良だった人だから年季も入っている。おならが1日50発以上出るらしい。船に乗っているようなふらふらがあるなど、生活の質はかなり落ちていたが、今はもうほとんど大丈夫だ。他にも不快症状を上げればあるのだが、僕が言いたいのは「とにかく元気にしたい」と言う僕の思いが通じたことだ。あの消え入るような声しかでないのなら、生命力としては弱すぎる。だから大きな声が出る様になって力強く楽しく生きて行って欲しいと思ったのだ。別にそんなことを頼まれてはいないが、逆にそういったことを目的に作った漢方薬しか効かないのではと思ったのだ。
 恐らく電話での印象だと「虫も殺せぬいい男」ではなく、虫も殺せぬ優しい女性な筈だ。僕はそういったタイプの方が苦しむのを見るのが辛い。苦しむ理由がないからだ。恐らく人を責めずに自分を責めるタイプだと思う。他罰的な人が多い現代で貴重な人たちだと思っている。
 僕も年齢とともに使う漢方薬が穏やかになってきたと思う。多くの先輩達が歳を重ねるに連れて使う処方がマイルドになっていくのを見ていて不思議に思っていたが、恐らくあの方々も、個別の症状ではなく全体像を経験的につかめるから、処方が次第に攻撃的でないのに変わって行ったのだと思う。僕もその境地にやっと辿り着きつつあるのかと思うが、武器は違っても人様のお役に立てれるのはこの上ない幸せだ。歌丸は高座の上で最期を迎えられたら本望と言っていたが、僕はその種の職業とは違う。「心身ともに健康」でなければ現場には立てない。体は日替わりで痛み、見えないところで遺伝子が暴走し、最終コーナーを走っているのを毎日実感させられるが田舎の薬剤師に切るべきゴールのテープなどない。待ち受けるテープなどもない。いつかそっと退場するだけだ。