幻想

 ひとつ、又ひとつと、歯が抜けるように牛窓から工場が消えていった。僕が帰って来た頃は、全国的に名が知れていた会社の工場が少なくとも3つあった。当時は、朝の通勤時間になると、それぞれの会社に向かう道路は渋滞気味になり活気があった。ところがいつの間にかそれらの工場は無くなった。嘗ての通勤風景も無くなった。
 それから何年も経って、薬局の前を自転車に乗って1列で通り過ぎる集団を見るようになった。同じ作業服を着、同じ帽子を被り、同じようにマスクをしていた。20年ぶりくらいに眺めるその光景にとても心を奪われた。そんなある日、その1団が薬局に入ってきた。全員が南国風の顔つきで言葉が分からなかった。ところがその中の一人がとても流暢な日本語を話し、僕の言葉を全て理解した。僕は職業柄会話をすることに慣れているから、日本人並みに話すその女性と、薬以外の話もした。いやむしろ僕の好奇心を止めることが出来なかった。これが最初の〇〇〇人との出会いだ。僕はその通訳の女性の日本語の能力にまず感動した。
 その後彼女は仕事の帰りに立ち寄るようになった。来日して1年以上経って初めて話しかけてくれた日本人が僕だったのだ。日本語の教科書を持って来て目を輝かせて質問をする。その勉強熱心さにも驚かされた。そのうち彼女達の生活ぶりを知ることになった。若い女性が夜勤で12時から朝の8時まで働くことを知った。牛窓の人と親しくなってはいけないと言われていることも知った。牛窓からは月に2回だけ集団で車に乗せられ、西大寺の安いスーパーに食料品の買出しに連れて行かれることを知った。給料も知ったし、寮費も知ったし、夜勤手当も知った。
 〇〇で東大級の大学を出ているその女性は、わずかの通訳手当ては貰うが、ほとんど他の従業員と同じ労働をしていた。ほとんどが農村部出身の女性達は純朴でまるでタイムスリップしたかのような感じだった。僕は出来るだけ誰も分け隔てなく接するように心がけた。
 ある出来事をきっかけに、僕に限って自由に接することを会社から許されてからは、日本の文化を紹介することを心がけた。僕が得意とする分野に偏りは出来てしまうが、多くの小旅行と多くのコンサートと多くのイベントをともに楽しんだ。恐らく日本人の知り合いがいないと経験できないだろう事ばかりだったと思う。ただ彼女達を理由に僕自身が行動力を維持できるという恩恵も頂いている。一方的に僕が何かをしてあげているような構図かもしれないが、実は計り知れないほどの心の栄養を貰っている。何かの数字では評価できないほど心は満たされる。それはそうかもしれない、現地で4000人の従業員の中から選ばれた人たちで、まじめでよく働く人達ばかりなのだから。
 3年間の仕事を終えて帰国する女性たちは、誰も県内で一番厳しい会社のことを決して悪く言わない。「厳しいけれど私たちを守ってくれた」と感謝の言葉しか聞かない。だからこそ僕も安心して世話?おせっかい?が出来るのだけれど。
 翻ってつい最近のこと、我が家に寝泊りさせここで専門学校を卒業し、介護施設に就職が決まった2人の〇〇〇〇人が(数年前に帰国し、僕を頼って再来日)新たに岡山市にアパートを探している。ところが見事にことごとく断られた。僕が保証人に署名して、職業や年収も書き込んでいる。それなのに全敗だ。理由が後日分かったのだが、〇〇〇〇人だと言うたった一つの理由だ。僕が初めて〇〇〇〇人と付き合いだした頃の印象はもう日本人の心の中にはない。アパート経営者達は知っているのだ。一人入居の契約をしても一杯転がり込んで暮らし始めることを。岡山市の畑には名指しして「〇〇〇〇人盗むな」と看板が立てられている。新聞にも時々事件を起こして載るようになった。
 同居している2人がもう数年前に「これからやってくる〇〇〇〇人怖い」と言っていた。同胞を名指しして怖いと言ったのだ。嘗てのように選ばれて来れた時代から、誰でも来れる時代になったのだ。この変化を、僕達はしっかりと認識して、他国の人たちと付き合わなければならない。貧しくても心清くある人と言う思い入れは、幻想に変わった。外国人の評価は、一派一からげに印象をくくるのではなく、個人の性格や能力を見極めなければならない時代になった。