嗅覚

 本来は、町の薬局で手に負えないから医院に行き、そこで手に負えなければ大きな病院に行く。ところが漢方薬をやっている薬局はその流れが逆のことが多い。大きな病院で改善しなかったりするとこんな田舎の薬局でも頼られたりする。
 その女性も正にそのパターンだ。嗅覚が全く無くなって病院にかかっていたが、お医者さんがそろそろさじを投げかけた。それでは困るから、お母さんが僕の薬局の漢方薬を飲んでくれている縁で訪ねて来てくれた。事故などを経験している場合は僕は断るのだが、その方はそういった心当たりはない。2週間分ずつ飲んでもらっていたら、2ヶ月くらいでコーヒーの香が分かり始めた。ところがそのコーヒーの香がなんともいえぬ臭いそうだ。嗅覚がほんの少し復活したから嬉しいが、大好きだったコーヒーの香がまずいことには閉口したらしい。それから2週間経った今日、ご飯のにおいも分かり始めたらしい。これもまた臭いそうだ。あの美味しいお米が臭いとはどういった状態だろう。そして例のコーヒーは、少し良い香りに変わってきたらしい。
 普通の人から見れば摩訶不思議な症状だが、本人にとっては何で私がと思ってしまうほど不愉快だろう。その女性の正面に腰掛け、些細な変化を喜んでいる姿を見ると「けなげ」に見えてきた。頼りない僕の薬局に大切な嗅覚の回復を求めてやってくる気持ちが哀れに思えた。そして根気強く漢方薬を飲んでくれるその女性に報わなければと気持ちを新たにした。