写真

 いつ何処で撮ったのか分からない。背景を見ても広場のようだが、何処の広場か見当がつかない。ただその写真の中の僕はのけぞるように笑っていて、とても幸せそうに見える。誰を相手に、何を話題にあんなに笑っているのか一切記憶がない。
 数日前に、その写真を台所の棚の上で発見した。壁に貼られているかのように見えるが、立てかけただけだ。結構大きな写真で、正式に写真にしたものではないから結構映りが荒い。でもそれが救いだ。もしあれが綺麗な正式な写真だったら、この1ヵ月半の僕の不都合な検査結果のせいで準備されたものと勘違いしてしまう。それこそどさくさに紛れて用意したのかと思ってしまう。
 そんなことを考えたのは、母の写真のことがあるからだ。もう10年くらい前だろうか、モコを抱いて裏庭にいたら観光客がその光景を気に入って写真を撮ってくれたらしい。写真の母は慢心の笑みを浮かべモコも満足そうな顔をしている。単なる観光客かセミプロかプロか分からないが、とても良い写真で、僕は母が亡くなった時はこの写真を使おうと決めていた。家族葬だった為にどんな写真でも許される。兄弟姉妹が、あんなに美しくて上品な母を瞼に永遠に焼き付けてくれれば僕も嬉しい。
 僕が見つけた写真と母の葬儀の時に飾られた拡大した写真の大きさが何となく似ている。黒縁さえつければすぐにでも使えそうだ。不謹慎なくらい笑っている僕でも、家族葬なら許されるだろう。そう言えばよく笑っていたなと、酒のつまみくらいにはしてくれるかも知れない。ただ、それも3日が限度だ。3日も過ぎれば自分達の生活のなかに埋没して、僕を思い出すことなどなくなる。それが正常な家族だ。今を懸命に生きる人こそが大切で、故人に思いをはせても仕方ない。僕の価値観から言うと写真なんかなくてもいい。アルバムも持っていない人間だから。