綺麗

 悪いけれど悪くない。よくはないけれど悪くはない。カヌーのある選手の犯した罪をニュースで見ていてそう思った。
 ライバルに禁止薬物を飲ませたり、道具を盗んだりして陥れたのは大きな罪だ。ここのところは明らかに悪い。ただその後良心の呵責に苦しんで真実を明らかにするために名乗り出たのは良い。前者もなかなかできることではないが、後者もなかなかできることではない。キリスト教では罪は許されるものだが、宗教と関係ない人でも、名乗り出た選手をもうかなり許しているのではないだろうか。
 許す理由は、日本人の変質振りに多くの人間が心地よくない日々を送っているからだと思う。カヌー選手の卑劣な行為を許すわけではないが、その後名乗り出て、選手資格を失うかもしれない選手を救ったことは、日本人の潜在意識の中に隠れている切腹と相通じるところがあるからではないか。腹を切って謝る、責任をとる姿に共感を持ったのではないか。現代に実際に腹を切るのはありえないが、名乗り出ればアホコミに追い回され、社会的には葬られる。腹を切るのと同じ運命だ。
 日本人の素養の変質振りは底辺の人間から頂上辺りの人間までどの階層でも起こっている。下々の人間のそれはかわいいもの、罪もすずめの涙ほど小さいが、トップに立つ人間達のそれは違う。疫人を全方位的に従え、何処から攻めてこられても、疫人のワル知恵を利用し自らを守る。国のカネで悪友を優遇し、又自分に還流させる。鬼業もアホコミも一蓮托生でやりたい放題。それでも豚場の豚のごとく汚れて息苦しいところに閉じ込められた国民は、まかれた餌に群がり尊厳さえも食ってしまう。
 国民は悪いけれど悪いやつらを去年散々見せられた。謝りもせず、罪も認めもせず、ひたすら権力を使って居直る、そんな悪いやつは悪いを見せられ続けたら、カヌー選手の悪いが綺麗に見えてくる。オリンピックに出られるようになるだろう選手の綺麗を次は見て見たい。