注射器

 当日は麻酔をかけるから、車を運転してこないように、出来れば家族の方の付き添いをお願いしますと言われていた。注意書きにも、もし一人で来られる場合は公共交通機関を利用のこと、違反すれば検査は行わないとも書いてあった。だから今日は妻に連れて行ってもらう予定だった。
 ところが正月明けの昨日がとても忙しかったので、娘夫婦に「悪いけれど明日は一人で行って来て」と言われた。あちゃっと思ったが、薬局第一の僕はすぐにそうすると答えた。麻酔が覚めるのに2時間くらいかかるらしくて、2時間経たなければ自由には動けない。まあ病院だから何かあれば助けてくれるだろうとあまり心配はしなかった。1人暮らしの人だったら当たり前のことだからこれも体験と前向きに考えた。この1ヶ月、まるで未体験ゾーンに放り込まれたような毎日だったから、ついでにとことん経験しておこうと不思議な積極性も出てきた。
 電車で岡山駅まで行き、そこから歩いて川崎病院まで行くのだから、逆算すると牛窓を6時半に出なければならなかった。目覚まし時計を5時にかけて、その音で目覚めた。昨日は開店初日で薬局が忙しく、その前々日は11人を連れての神戸旅行で疲れ、その両方で目覚ましの力を借りなければ起きれなかった。本来僕は目覚まし時計より早く起きるタイプなのだが、さすがに年末のハードな日々からの疲れを溜めていたのだろう。
 とにかく仕事をしたくてもできないのだから、有意義に「休もう」と決めていた。休むことにも意味づけをしないと休めない前時代的な血をまだ持っている悲しさだ。約束の時間になると看護師たちが順番にやってきて愛情を込めて?慣れた手順で世話をしてくれた。そして最後にベッドに横たわり左を向いて下さいと言われた当たりで疲れがどっと出て来て眠くなった。やっと眠れる、どうせまな板の上の鯉だから寝ていればいいのだ、人が働いているこんな時間でも堂々と寝ておれると考えていたら今にも寝てしまいそうだった。看護師がもうすぐ麻酔薬を点滴で入れますと教えてくれたのだが、その1秒後には恐らく僕は完全に眠りに落ちていたと思う。思うと書いたのは、当然目が覚めるまで記憶が全くないからだ。だから今でも僕は、疲れきっていたから麻酔薬のおかげではなく自然に眠りに入ったのだと思えて仕方ない。確かにその後麻酔薬を入れたのだろうが、ひょっとしたら麻酔薬は必要なかったのではないかと思ったのだ。
 2週間前から今日麻酔をかけられる事を聞いていた。麻酔薬には少し抵抗があったけれど、今日の体験から言うと何の問題もない。確かに半日くらい100点の性能は維持できないが、90%くらいは保障される。もともと90%も怪しいのだから問題はない。もし今日のように一瞬にして眠りに入れるなら、そのまま永久に目覚めぬ眠りに入れてくれても問題はなかった。もう少し濃度を上げてくれさえすれば可能だ。正に疲れきって布団に横たわり、あっという間に眠りに落ちる。その幸せな眠りを注射器ひとつで実現できる