たしなみ

 「なんと、洗練された人たちなのだろう。粗野で品のない私たちの国に比べ、この国にはちゃんと文明が根付いている」 スイスに住む実業家ジャクリーン・フマガリさん(70)が初めて日本を訪れた時の感想だ。15年前だった。フランスに生まれ、日本のブランド衣料を欧州で扱うビジネスを手がけてきた。夫はかつてベネチア国際映画祭の運営にもかかわっていた。世界各地に足を運び、多くの国と人を知っている。そんな彼女が十数回目の来日をした今月、残念そうな口調で語り始めた。
「道でぶつかりそうになっても、『ごめんなさい』とも言わずに行ってしまう人が多くなったわね」
「白いつえをついた人が電車に乗ってきても、子どもたちが大きな顔で座っている。大人はみんなスマートフォンに見入って、だれも気づかず、 注意もしない。なぜ?」
 かつては体験しなかったこと、目にしなかった光景だという。「きっと日本はだんだんヨーロッパのようになりつつあるのね」と嘆いた。思いやりとたしなみ、他人への関心や気づかいにあふれていたころとの差は大きいようだ。 ジャクリーンさんの言葉を借りれば、築き上げた文明がほころびつつあるのかもしれない。

 今の時代を嘆くのに、何かの言葉が足りないと文章を書くたびに思っていた。恐らくそれはひとつではなく、多くの言葉がまだ隠れているのだろう。今朝の毎日新聞の一部を切り取った文章が上のものだが、その中で使われている「たしなみ」と言う言葉が心にひっかかった。そもそも、その言葉を使えるほどのたしなみもないから、縁遠い言葉ではあるのだが、結構多くの日本人が失ったものではないかとこの記事を読んでいて思った。年配者などでは当然身につけているだろうと嘗てなら思えていたものを、現在の年配者は持ち合わせていない。そこからスライドしてどの世代でも同じことが言える。嘗ての50代なら、嘗ての30代ならと言えていたものが今は喪失されている。お金や数字で表すことが出来ないから漠然としたものになってしまうが、その損失は計り知れないものがあると思う。気持ちよく生活できるというのは、人生でかなりの価値を持つ。ひょっとしたらそれ以上の価値はないかもしれない。たしなみを忘れた肉体が街を彷徨している姿を想像したらいい。スマートフォンを持ったトンビだ。