蓄え

 さっきまでと打って変わった表情が一瞬現れた。それを僕は見てしまったから「自分、何かあったな!」と詰問調に尋ねた。するとこれまた一瞬の内に目を充血させ涙を溢れさせた。彼女に何かあるとしたらお父さんが亡くなることしかない。数ヶ月前に相談を受けたのだが、そのあまりにも病気の多さ深刻さに、医者でもない僕が帰国を勧めたほどだ。ところが契約によって、見舞いの為では帰れない。だから心配するだけの歯がゆさの中で暮らしていた。色々な病気を抱えていて、それらのための薬を頼まれたが、日本だったら当然入院しているはずの病人に出せれる薬はない。彼女と相談の結果、命がある間少しでも楽に暮らすことが出来るようにする漢方薬を送った。傍にいてあげることができない娘のせめてもの親孝行なのだ。  その甲斐があったのかどうかわからないが「お父さんのお母さんと同じ。眠る様にして亡くなった」と言った。そして亡くなる数日前に電話で話が出来たらしいのだが、お父さんが異国で頑張る娘に「仕事は上手くならなくてもいいから、友達と仲良くしなさい」と言ったらしい。彼女は通訳として来日しているが、そして日本語能力試験の1級も恐らく合格するが、そんなところは微塵も見せず、学歴のない同僚21人をまとめている。まとめるというより打ち解けていると言ったほうがいいかもしれない。  この娘にして何故アル中の父がとそのギャップに驚かされたが、本当は彼女と同じように繊細で賢明な人だったのかもしれない。酒への逃避行は繊細さゆえの行動だったのかもしれない。彼女の話を聞いてそう思った。母が亡くなったときに「お父さんは全然悲しくないよ。オバアチャンが生きているときに一杯尽くしたから」と僕が言ったのを覚えていて、「私もオトウサンと一緒、一杯父にしてあげたから・・・大丈夫」とけなげに答えて笑顔も見せた。  かの国の家族の絆の強さと愛情の強さにはしばしば驚かされるが、それは家族の間だけではない。その夜寮に見送りにいったときに、僕と彼女が話をしているのを取り囲んでいたかの国の女性たちの多くが涙を流し、また懸命にこらえていた。働けど働けど自国では貯金が出来ない国から来た若い女性たちは、心の中に既に大きな蓄えを持っている。